学習障害は
算数障害
読字障害
書字障害
の三つであるが、
音痴が
音楽障害
絵心ない人が
絵画障害
サッカー苦手な人が
サッカー障害
としてクリニックを訪れる事は無い。

 ワープロや計算機が発達した今、書字障害や算数障害でクリニックを訪れる大人はあまりいないと思う。

 ニューロダイバーシティという概念が1990年代後半から出てきた。学術論文としては2009年が初めてである。人間の認知は多様性があり、それは自然であって好ましい事であり、正しい規範などは無いという事だ。偏差値で試験競争をする学校文化に真っ向から反対する概念だ。

 何か基準を作ってテストをすれば正規分布に近い形で偏差値というラベルをつける事はできる。
 学力試験でなくても短距離走でも体重でも縄跳びでもジャンケンでも囲碁将棋レーティングでもだいたいはそうなる。

 学力試験でもネットで検索ok,マサマティカで計算ok,プログラム組んでもok、chatGPTも使用okというかなり実践に近い形式にしたらまた変わってくる。

 学力試験競争は多様性を拒み、国内カースト形成に若者の熱量を奪う社会悪とも言える。国際競争力を失う。学制発布は明治維新からまもなく始まった。日本の産業革命期と重なる。資本制と徴兵制がはじまり、軍と工場のために人材を養成する必要があり、人材配置のために一点物の人材に名札を貼って流通させる必要があった。
 徴兵検査は甲乙丙で兵士としての格付けをした。

 それからもう1世紀半がたち、時代は変わった。しかし学校はいまだに古い体制である。教員はなかなか変わらないのだ。

 例えばこんなブログだって、ある程度文章が書ければ、書けなくて口述でもいい、うまく編集ソフトがあれば、国語力がそこそこでも面白い記事は書けるのだ。

 私は昔、スピーチの技術を磨く会に参加していたことがある。しかしそこで分かった事は、スピーチの技術や経験はある程度は必要だが、スピーチコンテストで優勝するような人は、結局はそのスピーチのネタが面白いのだ。

 多様な考えの人が多様な経験を積む事で面白いネタができて面白いスピーチや文章が出来る。

 小学生が数年もの間、塾で関東も関西も同じような内容の単一目標に時間を費やす事が、多様性を失わせ、国力を削ぐのだ。

 小学生の時の体験って一生ものだと思う。親からしたら短いが、子供にとっては長く記憶に残る。

 学習障害というと、下位1割とかの発達障害者とかマイノリティのものであって、普通の人にとっては関係ないと思いたいかもしれない。しかし違うと思う。

 学習障害にはグレードがあるのだ。

 算数の天才だが、方程式がマスター出来ない人、方程式はマスターできるが、微積分はできない人、大学受験数学や数学オリンピックは優秀だが、大学での数学は出来ない人、最新の手法についていけない人、などさまざまなのだ。
 そしてその原因は分からない。

 小学校低学年と高学年は算数の質が違い、出来る層が入れ替わるというのは有名な話だ。
 しかし、そんなことはあらゆる段階である話なのだ。
 算数数学に限った話でも無い。




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