子供の頃から親は教育教育委員会と言うけれど、

せめて高校は出て欲しい

せめて大学は出て欲しい

とか言うけれど、


せめて相対性理論は理解して欲しい

とか

せめて古事記日本書紀は読破して欲しい

とか

せめて六法の基礎は理解して欲しい

とか


そんなこと言う親は聞いたことない。


学問をする理由が、社会的ステータスの上位に位置して下位の者に日常仕事をアウトソーシングして生きろ

と言ってるのに等しい。


こんな社会がいつまでも回るはずはない。


1980年代ジャパンアズナンバーワンの時代、

世界一の富豪は堤義明だったり森ビルの森氏だった。

コンテナが発明され、日本の工業製品、テレビ、車が直接アメリカ西海岸へ船で運ばれ、米国内陸路より安く日本製品が米国へ渡った。


 そうやって富を蓄え、発展途上国の農産物や労働力を安く輸入できていた。

 日本でアーモンドチョコレートが百円で買えるのは、ガーナの子供が日当五十円で収穫作業してくれたからだ。


 こんな生活をこれからも期待できるのか、して良いのか?


 もう日本円が安いので外国人労働者は日本に来ないと言う。むしろ日本の寿司職人や介護士が出稼ぎに行って日本へ仕送りしていると言う。


 多く稼ぐことよりも、質素な生活で満足できる幸せを願う方が健全ではないだろうか。


 学問や芸術が社会的ステータス向上のためのツールだったのは今に始まったことではない。古代や中世からそうだ。


 就労には五つの機能がある。


(1)社会貢献

(2)社会的地位や評価

(3)異性への有能さのアピール

(4)有限資源の再分配機能(贅沢品)

(5)有限資源の再分配機能(生活必需品)


このうち(5)は現代においてウェートが低い。

本当に生活に欠かせない必需品であって

全員に行き渡らないほど欠乏している状況になれば、

通貨は無効になる。

配給制に切り替わることになる。

コロナ禍初期でのマスクや、戦時中の食糧は配給制だ。


(1)-(4)はバラバラに存在するのではなくリンクしている。

贅沢品を纏うことで異性へアピールしたり、社会的地位の高さをアピールするわけだ。

(4)贅沢品は有限資源だが、本質的に有限とは限らない。あえて有限にして希少性を高めるわけだ。

 織田信長の時代、戦功をあげた臣下への報酬としての土地が不足した。そこで発明されたのが茶器である。

 これがまんまとハマり、富の源である肥沃な土地よりも、匠の手による名器をこぞって欲しがる武士達が沢山出てきた。人間心理の面白いところである。


 教育費用は生活必需品ではなく、贅沢品である。何故なら、教育はかなり国が金を出している。これは庶民の事を思ってのことではない。優秀な者が育たなくて貧乏人の無能に職を取られたら国全体が困るからだ。私立学校の費用が高いのは、それで貧富の差をあえてつけて、金持ちが貧乏人を遠ざけたいからだ。私立学校に金がかからなくなった時点で生徒にとっての私立学校の存在意義が無くなる。子供間経済格差で不公平を付けたいという金持ちの欲が源泉であって、社会としては公平化に努めなければならない。


(3)の異性へのアピールは男女と時代で異なる。

見合い結婚が多かった家同士の結婚なら、新婦の実家の豊かさはアピールになったろうが、恋愛結婚では、女の豊かさは男に対してあまりアピールにはならない。若さや美貌の方が遥かに上である。

男の豊かさは能力の表れにもなり、女に対するアピールになる。

だが、婚活期間は男にもある。一夫一婦制の国であれば、年取った男の財力目当てで寄ってくる女は稀だろう。紀州のドンファンとか。

 巣作りの出来ないオスの鳥はメスとツガイになれないから、婚活期の男にとって、就労は大きな問題だ。

 しかし、スポーツや芸術、芸能で著しい成果をあげたとか、お金にならなくとも、それが魅力となることもある。


 学校の勉強で平均以上の成績を収めて、その勢いで大企業正社員や公務員になって、結婚して、二、三人の子供を育てて、孫にも同じようなコースを求める

 そんな時代じゃないのではないか。そんなコース、三人に一人くらいしかうまくいかない。


 徴兵制がなくなって八十年だ。しかし今だに義務教育学校は存在している。学校なんてもともとエリート校は貴族か神父か公務員用、義務教育校は兵隊と工員用だ。


 皆んなが皆んな二十代から六十代までずっと雇われ仕事なんてしなくて良いんじゃないだろうか。


 この就労の五つの機能についてはまた考察したい。


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