1986年1月28日火曜日

現地時間11時38分

米国フロリダ州ケネディ宇宙センター

チャレンジャー号爆発事故によって7人の宇宙飛行士が亡くなった.

 

その後の調査により,原因は

Oリングというゴム部品であることが断定された.

 

1984年レーガン大統領は軌道上から生徒とコミュニケーションをとれる普通の先生を探した.

予算削減の圧力を受けているNASAは公衆の関心が高まることを期待していた.

NASAは事故発生確率を10万回に一回と嘘の情報を流した.

 

亡くなった宇宙飛行士の一人クリスタ・マコーリフ(1948.9.2-1986.1.28)は

ニューハンプシャー州コンコード高校の歴史の女教師だった.

彼女は11000人以上の応募者の中から選ばれた.

彼女は1970年に実家近くの州立大学で教育学と歴史学の学士をとり,卒業の数週間後に

高校在学中から交際していた男性と結婚し,高校の歴史の教員となっていた.

発射当時彼女は37才.

発射場所には多くのメディアがひしめいていた.

夫と9才の息子と6才の娘も見ている前で,

発射73秒後にチャレンジャーは空中分解し,乗組員は全員死亡した.

 

Oリングが冬の朝の低温に耐え切れなかったのが原因だった.

 

 

 

 

 

 

当初の予定では発射は1985年7月だった.(夏ならばOリングは耐えた可能性があった

それが1985年11月に延期され,

さらに1986年1月22日水曜14:42となった午後ならまだマシだった

しかし前のミッションだったSTS-61-Cのコロンビアの着陸が遅れ,

発射日は1月23日木曜,さらに24日金曜へと延期された.

その後,飛行が中断した際の緊急着陸地点(セネガルのダカール)が悪天候のため

さらに25日土曜へ延期された.

 緊急着陸地点をカサブランカへ変更したが,そこは夜間着陸地点用の設備が整っていないため,

発車時刻をフロリダ時間の朝に変更したこの変更は致命的だった).

またケネディ宇宙センターの天候不順が予想された.通常降水確率50%程度なら打ち上げ決行のはずだったが,大ブッシュ副大統領が(ホンジュラスへ向かう)途中立ち寄って発射を視察するため,さらに

27日月曜9:37へと延期された.

船外活動用ハッチに不具合が生じてさらに28日火曜へ延期された.

 

 1月28日火曜朝は異常寒波のため,実施可能な下限値であるー1度近くまで下がると予報された.

1月27日の夜,SRB(固体燃料補助ロケット)の製造とメンテナンスを受け持つ(NASAとの契約会社)サイオコール社の技術者は,異常寒波に懸念を抱き,NASA幹部と遠隔会議で気象条件の討議を行い,

Rボジョレー(1938.4.25-2012.1.6)ら技術者はSRBの接合部を密閉する2重のゴム製Oリングの弾力性が異常低温によって悪影響を受けることを懸念した.彼はこの会議以前にも同様の懸念を表明していた

 Oリングの温度が12度C以下になった場合SRBの気密性を保つか判断するデータを持っていないと論じた.

 サイオコール社は夜間の異常寒波でSRBの温度は危険値である4度Cを下回ると指摘した.

 

 このサイオコール社の懸念に対するNASAの反論は,2重のOリングのうち主リングが故障しても副リングが気密性を保つと主張した.ただしこれは,致命度1に認定されている重要部品であるOリングについては規定に違反する論法だった.

 

 打ち上げスケジュールを維持するために安全規定をしばしば無視していたNASA幹部は,<打ち上げが安全であること>ではなく<安全ではない>という証拠を示せという論法を出した。NASAから契約を解消させることを恐れるサイオコール社幹部はこれにおれ,技術者らの主張を取り合わなかった.

 

 ケネディ氷対策班は徹夜で氷を除去した.

 

 氷対策班が徹夜で氷を除去する中,シャトルの主契約企業ロックウェル・インターナショナル社の技術者たちも引き続き懸念を表明した.

 

SRBの排気ガスにより氷が振り落とされ耐熱タイルを直撃することを恐れた.ロックウェル社宇宙輸送部門責任者R.Petroneらは打ち上げを指示できないとロックウェル社幹部へ伝えた.

 

 しかし幹部らはこれらの懸念をしっかりとは伝えず,氷対策班に今一度検査させるために打ち上げを一時間遅らせることで,打ち上げは許可された. 

 

続く

 

 

 

 

 

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