(過去記事1)の続き
 
共同通信の記事によれば,近所の人の話では,長男M君は幼いころ近所の同い年頃の子たちとキャッチボールなどで遊んでいたが小学5年生頃から一緒に遊ばなくなり言葉遣いも乱暴になった.
 
1993年4月,M君が入った住吉中学は厳しかった.
授業中に私語をすると教員は髪を引っ張ったり机をけったりした.
せっかく入った難関中学住吉中から4人が転校していった.
 
M君は中学入学後は近所の人に挨拶をしなくなった.
 
M君は有名な高校受験塾に通っていた.
成績でクラス分けをし,無断欠席は親に報告し,ついていけない子は大勢辞めていった.
 
M君は中1の2学期から住吉中を休みがちになった.週に1,2日中学を休み,塾も数日行かないようになっていた.
中学に入ったころからY子さんとM君とで言い争う声を近隣住民がよく聞いていた.近所にも愚痴をこぼしていた.
Y子さんは教育熱心だったようだ.
Hさんの稼ぎはよかったがパート勤めをして教育費にあてたようだ.
 
年に1,2度しかゲームソフトを買ってもらえなかったため,M君は自宅から7km離れたところにあるゲームソフト店へ週に5回おとずれて店内のゲームで遊んでいた.とても居心地がよく店員にもよくなついていたようだ.
 
「勉強が嫌いになった。ついていけない」
どこに行っても勉強勉強といわれうんざりや、もう家に帰りとうない
 
店員にM君はそう愚痴を漏らしていた.
 
 兵庫県内共学校でトップの国立・住吉中に入れるくらいの学力が小学校6年生1月中旬の時点ではあったはずだ.
 中学1年生ぐらいのレベルの教科は英語を除けば既にもっていたはずだ.
 それでも勉強についていけなくなることはあるのだ.
 
 小3から浜学園に通い中学受験を乗り切ったということは,もともと勉強は嫌いではなかったのではないか.
 しかし,中1の2学期には休みがちになり勉強嫌いになった.
 
 厳しい中学校,厳しい受験塾,厳しい親.どこへ行っても勉強勉強と言われる.逃げ場がなかった.
 
 これを思うと私は恵まれていたと思う.
 親から勉強しろとは一度も言われたことが無かった.
 家で本を読んでいたりすると,父親には外で遊んで来い,と言われた.母もそうだった.後で分かったが,父も母も中学しか卒業していない.ともに1930年代生まれなので当時は高校進学率5割ほどだった.成績が良いときは母は喜び,父は驚いていたが,成績が悪くても叱咤されることは一度も無かった.
 学校や塾へ行けば,否が応でも競争社会だ.家が安全地帯になっていた.私の場合は.
 しかもたまたま中高大といつもクラスではかなり上位であると自認していた.じつは小学校低学年のころは算数も含めて平均かそれ以下だったのだが,自分ではそれに気が付いていなかった.(なぜ小学校低学年で算数の成績が悪かったかについてはカラクリが後で分かった.試験時間配分がまるでできなかったのだ.小学校3-4年生の時にある先生の計らいであるきっかけから出来るようになった.その話はまた別の回にしよう.)
 
 
 M君の父親Hさんも勝負の世界で生きてきた人だった.息抜きは外で酒を飲む事だったのか.
 Hさんはかなりの酒豪だった.神戸の飲み屋街で唄を歌うと泣いたそうだ.

 

 
 そして1993年11月22日月曜日.

 

 続く