(過去記事1)では大学入試、特に旧帝大の入試英語は英語力とも英検とも相関の低い国語力地頭力の検査になってるという話。


 そこで英語が国語的能力を試しているという話から、私は現代国語も入試に必要無いという意見を言いかけた。


 現代国語は入試科目にいらんと思うのよね。

 これからはますます。


 まず、(過去記事2)でも書いたが、特に記述式は採点者の主観に依存しやすい。どの採点者に当たったかという相性とか運の問題が生じてきて公平性に問題がある。


 また、問題によっては、四択形式でさえ、予備校ごとに模範解答が異なる、そしてしばしば引用文の作者が、自身の考える正答と作問者の正答が異なると批判する。




 例えば2022年の早大教育学部の国語がそうだった。引用された作者の批判に早大はダンマリ。



 一方で2017年大阪大学の物理の出題ミスでは、民間の一介の予備校講師が指摘したら、大学はミスを認め、不合格者を合格者にして謝罪することになった。


 物理学は客観性があるのでミスは認めざるを得ないが、国語はしらばっくれる事が可能なのだ。

 客観性のない国語という科目は入試に適さない。


 高校の授業で国語を学ぶことは良いと思うのよ。道徳と同じで。それを競争入試の科目にしてはいけない、という意見です。


 国語が入試に適さない三つめの理由

 現代国語って問題が変なのよ。地頭力試すとかいうけれど、ワザと分かりにくい文章を問題文として採用するのよ。悪文と言っても良い。


 あのね、国語には難問で良問は存在しない。2択問題で、10人中9人がAを選択し、1人がBを選んだ。でも正解はBでした、なんてのはありえないはずなんだ、本来。Bが著者の意図だとしたら、それは回答者9人が間違えていたわけではなくて、著者が間違えているの。

 分かりやすい文章を書かなきゃダメでしょ。人に伝える目的で書いてる文章が読み手に伝わっていないわけだから。

 数学や科学は難問で良問って沢山ある。

 国語の作問者は、へんに不要な学究肌出しちゃって、難しい問題を出したくなるのよ。それで悪問になる。


 現代国語とはいうけれど、これって前近代的なんだよな。

 昔は仏教もキリスト教もイスラム教もそうだけど、布教する現地の言葉でなくて、古典原語を使うのよ。もう使われていない古い外国語。わざとミステリアスにするの。ギルドとして参入障壁を作るわけね。

(過去記事3)に近代学校前の丁稚奉公ギルドの話を書いた。

 漢字だって江戸時代まで旧字体で難しかった。わざと庶民には読ませないように半暗号化していたわけね。それが明治になって義務教育として庶民に読ませるために漢字を易しい字体に変えた。中国もそう。


 もっと分かりやすく伝えられる話をワザと複雑に伝わらないように書いた文章を読ませるわけ。ある意味暗号化してるわけね。


 今の時代、難しい旧字体の漢字を読み書きできるなんて、必要無いでしょ?

 それと同じで、不自然に分かりにくい文章をありがたがる文化なんてもう不要だ。ソーカル事件のソーカルだってバカにするよ。



 文章は分かりやすく伝えてなんぼ。


 数学の証明は簡潔で分かりやすくてなんぼ。

 あえて要領悪い数学の証明読ませてありがたがる事なんて数学者はしないでしょ。


 難しい文章をありがたがる文化は日本に根強い。賢くて偉い人は難しい言葉を使う。それを理解できる弟子こそ弟子の中で優秀なのだ、という論理ね。

 英米圏だと違う。

 頭の良い人ほど、一番分かりやすく説明ができる。分かりにくい難しい説明をする奴は頭が悪いとされる。

 英国では一流の学者が一般大衆向けの講演をする伝統が昔からある。


 さらにはこれからはAIが進化する。これからの時代、読み手は人間だけでは無い。AIもだ。

 これからは文章は分かりやすく書くことが重要で、人間だけでなく、ChatGPTが読むことも想定して書かなければならない。

 ChatGPTに誤読されるような文章を書いてはだめなのだ。



(過去記事1)


(過去記事2)



(過去記事3)