(過去記事1)で会った老婦人の小学生時代の思い出の手記を読んだ.
1945年5月で国民学校5年生.
国民学校は1941年4月発足.
尋常小学校が国民学校初等科(修業年限6年)
高等小学校が国民学校高等科(修業年限2年)
だから,当時11歳とすれば,1934年生まれ.
1943年9月8日にイタリアが連合国に無条件降伏した.
その時は9歳か.
その時彼女がまだ30代だった父に言った.
お父様,伊太利が負けても独逸と大東亜共栄圏は負けないわよね
結核のため病身で家にいた彼女の父は険しい表情で答えた.
なにい!大東亜共栄圏?土人の集まりで戦力にもなんにもなりゃしないんだぞっ
と一喝した.
彼女は今年90歳.まだ生きていてこの9歳のころの父娘の会話を覚えている.
今は支援1で一人暮らしをしている.
この父は療養のため無職であったが父の父(祖父)が大学教授で家計を支えていたらしい.
父は無職とは言えど知識人だったわけだ.幼いころは東郷大将にも会ったようだ.
娘が父に対して話をするとき,
お父様
と呼ぶ時代だったんだね.原節子の映画で見る女性が日常にいたわけだ.
今も昔も小学生は新聞などマスコミの情報,政府の流すポリティカリィコレクトネスに影響されやすい.
だが教養ある人はマスコミの情報に騙されない.
ブラジル勝ち組負け組十年戦争を思い出す(過去記事2).
父は無職で療養中だし,祖父は名士とは言えど軍関係者ではないから,戦況の詳しい筋にいたわけではなかっただろう.
それでも情報の無い当時でも冷静に分析すれば分かるんだね.
小説・長い道(柏原兵三)(1969)を漫画化した
少年時代 藤子不二雄A(1978-79)
(1990年映画化もされた)でも読んだけど,
富山の国民学校では,登校する時に門で鬼畜米英だかなんだか叫んで英米人に見立てた藁人形か何かを叩いてから校舎に入るとか,そんな時代だったわけだ.
著者の柏原氏は1944年4月から9月まで富山県入善町立上原小学校に疎開していたそうだ.
そんな時代の中で1943年9月の時点で既に日本が負けると考えていたわけか.家でしか言わなかったろうが.
その老婦人が国民学校5年生の時に疎開して生活した学校は,そんな時代のさなかにとてもリベラルなものだったらしい.
今,日本は外国と戦争しています.しかしいずれ戦争は終わります.そうしたら外国の人たちとも仲良くしなければなりません.
そういった教育が 戦時中に行われていたらしい.
そんな時B29が学校の近くで撃墜された.土地の者はみな,アメリカ兵をさがして竹やりで刺し殺す,と騒いでいた.
ところが学校の先生は,
捕虜は国際協定で保護されるべきで,見つけたときは速やかに軍隊に引き渡さなければなりません
と,そう言っていたらしい.医師不足だったこの時代,この学校には医学博士が学校医として勤務しているなど,知識層が集まっていたのだ.
そういった教育をうけた少女(上の老婦人とは別の老婦人で数年前に亡くなった元女幹事)が別の土地の疎開先へ移ると,
棒を持った教師に
米英人は鬼だ
と教わる.そこで
人間は皆平等だ
とやりかえすと,疎開先の旅館の池の中にある柱に縛られて,食事も与えられず,155cmの慎重だったが体重が25kgになった.幸い担任が夜中にそっとおろしてくれ,
こんな時代は長くは続かない.今は黙って勉強しなさい
と言ったそうな.
戦後,棒で生徒をしごいた教師はしばらく休職し,助けた担任教師は千代田区の校長になった.
冒頭の老婦人は国民学校5年生の時にひとりで親元を離れて疎開先へ行くときに,荷物を持たせてくれた.モンペなどとともにロビンソンクルーソーの本が入っていたという.なぜロビンソンクルーソーか?と思ったが,後で分かったという.ロビンソンクルーソーは絶海の孤島で知恵と工夫で生き延び神との対話をもった.<撃ちてし止まん>しか知らない我が子に生きることのしなやかさを伝えたかったのだと.日本本土が戦場になり敗戦することを1945年春の時点では考えていたのだろう.
(過去記事1)
(過去記事2)