戦後も在ブラジル日本人20万人超の9割が日本勝利と信じた訳

第二次世界大戦中,ブラジルは連合国側につき,現地20万人超の日系人は敵性国人と呼ばれ立場が弱かった.
日本との手紙や邦字新聞は禁止され,彼らの多くは日本語しか分からず,情報がとざされていた.
が,唯一の日本からの情報源である(旧NHK短波ラジオ)ラジオ・トーキョーの大本営発表で日本優位と知らされていた.
1945年8月15日正午,昭和天皇が肉声で話すレコードをラジオが放送した.
いわゆる玉音放送である.
太平洋戦争での日本の敗戦を伝えた.
 
ブラジルにいた日系人たちもラジオ・トーキョーでこの玉音放送をほぼリアルタイムで聞いた.
文語調でわかりにくく,音も良くなかったため,勝利宣言だと真逆に解釈する者が出た.なんと当日8月15日のうちから日本勝利のフェイクニュースを伝える草の根ラジオまで登場し,現地日本人の9割が勝ちと信じ込んだ.ヒトは信じたいことを信じるのだ.戦勝派という.
 
 一方でポルトガル語(ブラジル語)を理解できた少数のインテリだけが,日本の敗戦を認める”認識派”となった.
 
 9割の戦勝派と1割の認識派は対立することになった.
 1946年12月邦字新聞が解禁された.これで正しい情報が広まると思われたが,事態はそんなに簡単ではなかった.
なんと,
 ・日本は勝ったと主張する邦字新聞(戦勝派)
 ・日本は負けたと主張する邦字新聞(認識派)
 ・どっちつかずの主張の邦字新聞(中間派)
の3つに分かれたのだ.売れたのは戦勝派邦字新聞だった.中間派も敗戦は認識していたが部数を伸ばすために敗戦を報じなかった.
 
1947年5月中間派の新聞”サンパウロ新聞”の創業者社長・
水木光任(みつと)(1914.12.30-1991.11.16)
が逮捕された.敗戦で既に紙くずになった日本円を”戦争に勝ったから値上がりする”と法外な金額で戦勝派に売りつけた罪である.水木は”骨董品を売っただけ”と釈明して釈放され,サンパウロ新聞を海外最大の邦字新聞にまでして,菊池寛賞(1977),ブラジルのリオ・ブランコ国家勲章(1991)を得た.現在サンパウロ新聞の前の通りはRua Mitsuyo Mizumoto(水木光任通り)と命名されている。
 
 現状を認識しない戦勝派をくいものにする詐欺師が横行した.

  1952年日本ブラジル国交正常化で、日本の情報が活発に入るようになり、
1954年サンパウロ市創立400年祭
で日本人移民らの団結が必要になって
徐々に戦勝派認識派の対立は解消されて行った。
が、それ以後もごく少数は戦勝派の立場を変えない人もいた.
 
 
より詳しくは以下.
 

 

 

 現状を認識せずに信じたいものを信じている者は詐欺師にあう.そしてマスコミは部数を稼ぐためにウソもつく.歴史は繰り返す.技術は進歩しても,ヒトの遺伝子は進化に万年単位の年月を要す.


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