(過去記事1)でこう書いた.

 また最近は改革(学区制が撤廃され、高校入試で内申点より筆記試験配分を大きくし、筆記試験は都内一律で無く自校作成)により都立高校は大学合格実績を伸ばしてきており、昨年は都立高校受験に強い塾enaが広告で、合格実績から

小石川は私立武蔵の上、日比谷は麻布の上

と書いて、品性を問われた。

  

 上は最近の話。ちょっと昔を振り返ろう。


 1965年の東大合格者数を見ればわかるが、都立である日比谷、西、戸山は百人越えで、麻布、開成、私立武蔵より大分多い。当時も東京都は十学区あり、第一学区、第二学区、第三学区のそれぞれに日比谷、戸山、西高校があった。


 戦後すぐの1947年,教育基本法・学校教育法が制定され,学校が旧制度から新制度になった.それまで義務教育は小学校までだったが,中学校までとなり,6・3・3・4制の単線性が敷かれるようになった.

 戦前は旧制中学校に進学するのはエリートだった.なかでも旧制第一中学校,旧制第一高校,東京帝国大学が特に高級官僚となるためのエリートコースだった.旧制第一高校が東京大学教養学部となり,旧制第一中学校は日比谷高校となった.

 そこで戦後は1960年年代まで優秀な子は公立高校へ進んでいた.日比谷高校や西高校,戸山高校が大学合格実績も高かった.ところがこれが過熱し,日比谷高校に入るために麹町中学校,そこに入るために番町小学校へ越境入学する子も増えてきた.その過熱した競争が問題視され,1967年に東京都では都立高校入試改革が行われ,学校群制度が実施された.

 それによって学区が細かく設定され,都立高校は一校しか受けられなくなり,落ちた者は私立高校に行くしかなく,受験科目も9科目(英国数理社・音楽・美術・保健体育・技術家庭)から3科目(英国数)になった.内申と学力試験が5:5の同等に評価されることにもなった。これは日比谷潰しと言われ,優秀なものは開成や麻布など私立高校へ流れるようになった.

 

 2003年学区制を全廃.

 そしてどの都立高校も一律の試験問題だったのが,独自問題を自校作成となり,内申点の比率も下げられた.

 そうして大学合格実績は都立高校が伸びることになった.

 

 結局はそういうことである.

 カリキュラムがどうだ校風がどうだ,言ったところで,大学合格実績を変えるのは,どんな生徒が入学してくるかで変わってしまう.

 私立は進度が早く高校三年生で受験勉強に専念できるとは言うが,公立でも進学校はそんなことはしてるし,優秀な高校の生徒はだいたい授業中に内職している.カリキュラム早かったくらいで違うなら,一浪すれば簡単に現役生に勝てるはずだ.しかし現実はそうではない.

 

 ということは,どの中学・高校に行っても,学校教育によって変えられることは無いのだ(過去記事2).

 

 これは塾ビジネスも同じだ.どの塾に通っても通わなくても結果は同じ.これは塾・予備校じたいが良く知っている.だから特待生制度を使ってでも実績上げそうな生徒を入塾させて合格実績つくるわけだ.

 

 

(過去記事1)

 

 

 

(過去記事2)

 

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