(過去記事1)の続き

 

(過去記事2)などで精神疾患は文化に依存すると書いた。文化は時代と地域に依存する。

(過去記事3)では泣き方も時代に依存すると書いた。男は泣かず女が泣くようになったのは欧米化・一夫多妻が進んだ明治以降の新しい文化で、平安時代は男が泣いて女は泣かなかった。

 

 人の意識は文明や社会構造によって常に変わる。


(過去記事4)で労働の意味を五つあげた。


 就労には五つの機能がある。

(1)社会貢献

(2)社会的地位や評価

(3)異性への有能さのアピール

(4)有限資源の再分配機能(贅沢品)

(5)有限資源の再分配機能(生活必需品)


 もともと通貨は(1)(4)(5)の為に作られた。もっとも(5)はいざ資源が枯渇すれば配給制にシフトする。

 おそらく多くは独身で子供がいない人たちだと思うが、FIRE目指すと言う人がいる。彼ら彼女らは、五つのうち(4)(5)しか見ていないということだ。


 (過去記事1)の高等支援学校長は、人に役立つことと居場所を強調していた。つまりは(1)(2)だ。

 人によって重要視するところが違う。


 その校長の言葉で気になったのは、たまがわ在校生は学校時代に辛い経験をした人が多いということ。そういう人には給与が12-13万円でも働く場所が必要だと説く。


 学校ってなんだろうね。


 辛い思いして頑張って学校へ通って、その先が生活保護費と大差ない作業所へ毎日勤務して居場所とすることか。


 支援学校長を批判しているわけではない。読んで気分悪くしたら御免なさい。自分でも結論が出てるわけではなくてモヤモヤしていることを書いている。校長は校長で自分の職域で出来ることをしているのだろう。私はそもそも未就学児をこれからどうするかというスパンで考えている。15-18才の支援学校生をかかえている校長とは視野が違う。

 

 例えば私がこう言ったらどうかな?


 支援学校長や教員なんて誰がやっても同じですよ。給与を生活保護費なみに下げても良い。それでも校長は人に役立つ意識を持てるし居場所もできる。校長や教員というポストは働いている人の居場所づくりの為にある。


 こう言ったら教育界を敵に回すんじゃないだろうか。(実際、教員というポストは1870年代 家禄廃止した武士が暴走しないための再就職先という意味が大きかった、)でもそれって校長が障害者雇用を下に見ているとも言えなくは無いだろうか。あくまで支援する側がされる側を支配しているような。(過去記事5)を思い出した。

 働くことを人間の価値の第一にかかげる思想が長年の学校生活で洗脳されてしまう。

 うちの長女が幼稚園で将来の夢を描こうという企画があった時、うちの娘はお母さんと書いたが、先生にそれはダメだと言われた。金銭授受を伴う職でないとダメだと。かくして花屋と書いたそうな。

 それって洗脳だよね。そういう幼稚園教員はいまだに独身。その幼稚園が悪いのではなくて全国的な構造の話。



 

 

 


 

 

(過去記事1)

 

(過去記事2)

 

 

(過去記事3)

 

 

(過去記事4)



(過去記事5)