(過去記事1)で
夫が妻を守り、子のいない妻は社会の弱者を守るという構図が映画の中に普遍的にあって、妻に三、四人の子供がいたらそうはならなかったろうと書いた。
 でも妻子をおいて社会を守るべく戦う男はむかしは良く映画に描かれていたはずだと書いた。
 
 思い出したが,キューバ革命の立役者
チェ・ゲバラ(1928.6.14アルゼンチン-1967.10.9ボリビア)
には妻と子供がいた.1955年に最初の結婚,翌年娘誕生,1959年には離婚し,二人目の妻と結婚し,4児をもうけた.ゲバラの死後はカストロがゲバラの遺児の経済的面倒を見たのだろう.
 最も二人の妻とも革命の同志として知り合った.
 
ゲバラは5人兄弟の長男だった.彼の子供5人のうち二人は既に亡くなっている.
長女イルディタ・ゲバラ(1956.2.15-1995.8.21)
次女アレイダ・ゲバラ(1960.11.24-)小児科女医
長男カミロ・ゲバラ(1962.5.20-2022.8.29)労働法等専門の弁護士 長男
三女セリア・ゲバラ(1963-)
次男アーネスト・ゲバラ(1965-)
 

 

 
 ゲバラは当時の安保闘争世代の若者たちの憧れのまとだった。1974.12-1975.5連続企業爆破事件に関与した東アジア反日武装戦線メンバー桐島聡(1954.1.9-2024.1.29)らも影響を受けていたろう.
 
 
 アイルランド系の父とスペイン系の母の比較的裕福な家庭に生まれたゲバラ.幼少期から重度の喘息持ちだった彼は大学医学部へ進む.医学生時代の1951年にはオートバイで南米放浪.医大卒業後は独裁政権下で軍医強制徴兵を嫌ってアルゼンチンを出て,ボリビア,グアテマラで革命に加わるが失敗.逃亡先のメキシコで1955.7(反体制派キューバ人)カストロに出会う.
 1956.11.25メキシコに妻娘を残しゲバラはカストロと80名で7人乗りのプレジャーボートに乗ってキューバへ向かう.82名中12名以外は上陸後最初の戦闘で死亡または捕虜となった.生き残った12名中のひとりであったゲバラは当初は軍医だったが,革命軍政治放送のためのラジオ局設立など才覚を表した.
 軍事訓練も受けたことのない喘息もち新米医師がカストロに次ぐ反乱軍ナンバー2として大活躍した.
 1958.12.29ゲバラ率いる第二軍300人で政府軍6000人が迎え撃つキューバ第二の都市サンタ・クララに突入し,制圧に成功する.1959.1.1親米政権大統領バティスタがキューバを脱出.1959.1.8カストロが首都ハバナに入場することでキューバ革命が達成した.
 1967.10.9南米ボリビアで親米軍事政権と民族解放軍を組織して戦い,処刑された.ボリビアで軍事政権が終わったのは1982年だった.
 
 
 1940年代50年代生まれの人には,この時代の空気感に大きく影響されただろう.私もリアルタイムでは分からないが,幼少期の記憶として,この時代の残り香は感じていた.
 作家・政治運動家・代ゼミ予備校講師の小田実(1932.6.2-2007.7.30)がそんな雰囲気をテレビなどで出していた.大学出・バックパッカーとして海外一人旅・平和運動・言論活動・反自国政府・北朝鮮擁護.
 小田実は53歳(1985?)にして初めて子供(娘)をもうけたらしい.

 

 

 田原総一朗司会の朝まで生テレビ!は1987.4.25からはじまった.初期の頃は小田実なども来ていて,安保闘争時代の雰囲気をだいぶ残していたように思う.最近は見ていないので知らないが.

 

 大東亜戦争中、日本の若者は大東亜共栄圏を目指して特攻隊に志願した。

 戦後すぐの若者は、戦争帰りの上の世代に反応し、安保闘争大学紛争に熱を上げ、テロやデモを起こした。

 そのすぐ後の若者は校内暴力に走った。しかし単なる嫌がらせはしても社会を変えることは企まなかった。校長を襲撃することも校舎に爆弾仕掛けることもなく、その学校の卒業証書はもらうつもりで毎日登校していた。

 今の若者はまた違う。


 時代と共に人の意識は大きく変わる。


(過去記事1)