金持ちになる方法はこの世に三つしかない。

(1)比較的有能であること

(2)比較的リスクをとれること。

(3)比較的重要な事を犠牲にできる事



比較的というのは他の人と比べて、という意味である。


誰でもできる仕事は、労働者の交換が容易なので、高い利益は得られない。


(1)有能性


藤井聡太も大谷翔平も有能であって、彼らの仕事は他人にはできないのでお金は沢山集まってくる。

 先天的な才能と訓練によって有能性を勝ち取る。奨励会や少年野球で思春期の貴重な時間や体験を犠牲にしたという意味では(3)につながる。得たものが大きければ犠牲も後悔はないだろう。

 ただ、こんな話がある。最近、元力士の貴乃花が初恋の女性と再婚したとのこと。貴乃花は駆け出しの頃、その女性と同棲までしたが相撲に打ち込みたいとの理由で別れた。その後ご存知の通り相撲では横綱として大活躍し別の女性と結婚し一男二女えたが離婚し、力士としても指導者としても相撲界から去った。そんな彼がRedChairというネット番組で、初恋の女性との線路で遊んだ話をし、その思い出があるから辛い時も踏ん張れると語った。その初恋の女性は別のJリーガーと結婚し四男得たが夫を亡くしていた。彼女の妹がRedChairを見たことがきっかけで再婚にいたったという。

 父と同じ大関以上になるんだという強い意志で稽古に励んでいた駆け出し時代、初恋女性との関係を犠牲にした貴乃花。そんな10代後半の頃の思い出をずっと噛み締めていた貴乃花。その犠牲は貴乃花にとって今でも価値ある犠牲だったか。

 まあ、それは置いておいて。

 有能であるためにはある程度の才能ないし特性が必要である。将棋(1924-)も野球(1036-)もプロが出来たのは、新聞社の購読者拡大のための企画としてだ。大正時代以前であれば、プロ野球は無かったし、棋士も江戸幕府の後ろ盾無くしてから食べていけてなかった。そんな時代に藤井聡太や大谷翔平が生まれていても、彼らの才能は発揮できていなかった。もしかしたら、藤井聡太の才能は計算機の登場と相性が良く、計算機登場前の羽生善治世代として生まれていたら、羽生世代より抜きん出て凄い勝率を残していなかった可能性はある、


 才能はである。本人にも他人にもどうしようもない。天然資源である。クレーンなど工作機械や爆弾が発明される前だったら、腕力は才能としてもてはやされていただろう。

 稗田阿礼は暗記の天才で彼が神話を沢山覚えていたので古事記ができたという。録音技術も書き文字も印刷技術も普及してなかった時代は暗記力は重要な才能だったろう。

 写真機が発明される前は画力は実務上重要だったろう。

 何が言いたいかと言うと、才能とは時代に依存するということだ。その人が生きている時代に他人が必要としている仕事にフィットした特性を、その人の才能と呼ぶ。

 才能は運なのである。大谷翔平が将棋の修行を積んでもプロ棋士にはなれなかったろう。向き不向きが人にはあるのだ。適性が無いと有能にはなれない。

 今後のAIの進歩によって、特性は有用になったり無用になったりする、

 それも運である。個人がコントロールできる範囲は限られている。


(2)リスク


では有能でない者は金持ちになる手段が無いのか?

いや、ある、

それはリスクを取ることだ。

国内でも国外でも貧困地域をみよう。たまたま凄く勉強が出来るとか何かのスポーツや歌などに才能があって見出されたとかではない、特に有能な特性のない凡人たち。

彼らで金を持つものがいる、ギャングだったり麻薬の売人など非合法手段で商売をすることだ。


 麻薬を手に入れて売ることにそれ程すごい能力は必要ない。警察に摘発されるリスクを取れるかどうかだ。実際かなりは逮捕されて収監される。しかしそのリスクを取れる人のうち運の良い人は短期的にまたは長期的に金持ちになれるわけだ。

 犯罪に手を染めて金を稼ぐ行為は、リスクをもつ。


 株式投資もそうである。株価変動のリスクがある。そのリスクをとることで運が良ければ利益を得る。

 老後破産のリスクを取ることでたまたま運良く老後資金が潤沢になる。

 これもみんなはリスクを怖がって取れないので、一か八かリスクをとれるというのは一つの特性であり、才能である。

 (過去記事1)で書いた今年元旦に亡くなった山崎元氏は大学一年生の息子に株式投資でリスクをとれ、と

手紙を書いたらしい。

 火災保険加入者は大抵損するが、万一の場合に破産するリスクを回避する。株式投資というのはその逆になる。大抵は得するが大損するリスクがある。その大損の限界値を許容範囲内に入るように株式投資するわけだが、それだとたいして儲かりはしない。

 もちろん事業をおこすのもリスクだ。飲食店を開業しようと、初期投資をかなりかけ、店舗スペースを契約して内装も業者に頼み、道具もスタッフも揃えて、スタッフ教育も仕入れやメニューやさまざまな計画を完璧にこなし、開業しても、百年ぶりの感染症コロナで外出禁止令が出るかもしれない。

 工場と機械に金をかけ、工員に固定給を約束し、事業をはじめても、失敗して負債をかかえこむリスクもある。


(3)犠牲


リスクをとるという行為は、安全な道を犠牲にするということだから、(2)は広い意味での(3)に含まれる。

 先天的才能もない、リスクもおかしたくない、それでも金持ちになれるか?

 なれる。

 それは他人が嫌がって犠牲にできないことを犠牲にできる人だ。毎日朝早く起きて決まった時間に出社する。これは自分の私的な時間や体調や睡眠欲などを犠牲にしている。それが出来る人は、出来ない人に仕事を奪われることはないだろう。今ではフレックス制やリモートなどで、それが出来ない人が働ける馬もある。

 しかしそれでももっと大きな犠牲を払って仕事をしている人もいる。

 思春期は受験勉強に明け暮れ、学校を出て職を得てからもキャリアを積むために同僚たち同じ業界人たちと競争することになる。時間とエネルギーを沢山仕事に向けなければならない。そうでなければ競争に負けてしまうのだ。学者なら大学院、ポスドクを経て、終身雇用付きポスト(テニュア)を得るまで気が置けない。芸能人だってそうだろう。気がついたら30代で独身子無しだ。それから婚活しようにも、仕事しか知らんので恋愛関係にまで発展しなかったり、結婚しても年齢が年齢なので子供の数が望めない。平均して出生率2.07未満となり、絶滅する人種となる。あれだけ熱心に情熱を傾けていた仕事も寿命の四半世紀前には定年となる。

 (1)で書いた貴乃花も相撲でなくて初恋の女性を取るべきだったと今までずっと後悔していたのではないか。少なくとも後悔の念が全くなければあの場で話はしなかったろう、

 子供の数を減らすほどの大きな犠は無いだろう。若いうちはこれに気がついていない。貴乃花もそうだったろう。世間がその犠牲を払うことを推奨していた。そして、その彼らは人生から消えていった。(過去記事2)で書いた映画6歳のようだ。


 山崎元氏は、リスクをとれ、交換可能なコマになるな、と説く。


 私は彼の評論は好きなのだが、私は少し違う考えを持っている。


 交換不可能なコマ(労働者)は本人も家族も大変なのだ。

 仕事の当日の朝、子供が熱を出しました仕事休ませてください、

 不妊治療、妊娠出産、子育てに専念したいです、育休や休職をお願いします


 そして、すんなり、どうぞ、と言ってもらって簡単に誰かに交換してもらえるようでなければ困るのだ。


 司馬遷(?-BC87)は宦官だった。清王朝滅亡(1912)まで3000年にわたって世界中に宦官がいた。西暦2000年前後にも百数歳の老人が宦官だったという話がある。

宦官とは完全去勢した役人である。去勢してまで高級役人になりたいと願う人が三千年もいた。中国の最盛期には男の1/3が宦官死亡したと聞いたことがある。

 林羅山(1587-1657)は若い時仏教で身を立てようとして修行していたが、子孫を残さないのは先祖に対して間違えているとし、逃げて儒教の世界へ入った。


 婚活妊娠適齢期といえる10代後半から30代前半まで、彼らが争ったら、そりゃ、子孫を捨てる犠牲を払った方が競争に勝てる。

 しかし、そこまでする過当競争は、本人のためにも先祖のためにも、そして社会全体の為にも良くない。

 本当に個人にそこまでさせないとならない重要な社会貢献ってあるのだろうか?

 ヒトラーのユダヤ人虐殺じゃないけど、トップが命じるというか中間管理職アイヒマンが頑張って下っぱにやらせる。そして責任なく消えていく(過去記事3)。



私の主張1


昔は若い青年が決闘で死ぬこともあったろう。今でも戦争に出て命をなくす兵士はいる。まだ子供ももたないのに若くして自ら戦場に出て国のために命を落とす。


 二つの種族A,Bがいたとして、Aは勇敢に戦う男が多い部族、Bはそれぞれの男が自分の子を2,3人持つまでは戦場で勇敢に戦わない、とする。

 そしたら、Aが勝ってBは衰退するか滅亡するだろう。しかし、それはAでも生き残る男がいるということと、女は一夫多妻制で亡くなった男性の分より数多く子供を産む、という前提条件があってのことだ。いくら戦に勝っても出生率2.07未満なら滅ぶ。


 もうそんなに労働者に出生率低下という犠牲を払わせるのをやめよう。


 普通の人はリスクなんかとれない。犯罪を犯すリスク払えば社会が悪くなる。

金融で儲けようというのも疑わしい。

今は金あまりだ。本当に有望な事業なら銀行が投資している。素人が公開情報だけで成長企業なんか分からない。企業の成長も運だ。

 クラウドファンディングなどでプロジェクトを応援する人の気持ちは分かる。株式投資は応援するためのものであって、金儲けのために株を売り買いするのはギャンブルとどう違うのか?

 


私の主張2


そもそもさ、金持ちになりたい、という気持ち自体がさもしいと思う。

人類全員が金持ちになることはあり得ない。

みんながみんな金を持つようになったらインフレが起こるだけのことだ。


 金を持つことで、金で他人を奴隷化しようというのか。

 通貨というのは、そもそもが、資産の分配手段に過ぎない。

 しかも潤沢にあるかまたは日常生活に必要不可欠ではない贅沢品を分け合うためのクーポンに過ぎない。

 日常生活に必要で枯渇している資源は、通貨でなく、配給制となる、戦中戦後の食糧やコロナ初期のマスクのように。


 親や教師が金金言いすぎるのではないだろうか。

 一部の人しか実現しない事に向かわせても不幸にしかならない。そしてそれを実現した一部の人というのは才能があるかリスクをとったか大きな犠牲を払ったか、その三つだ。


 大切なのは金を稼ぐことではない。社会貢献をすることと資産の分配をする事だ。金銭はそのための手段の一つに過ぎない。

 目的を忘れて手段に埋没してはならない。



(過去記事1)


(過去記事2)



(過去記事3)