<探訪マップ 築地本願寺~新富町駅>
◈その1で「築地本願寺」の参拝・探訪をレポートしました。
◈その2で「築地居留地跡」探訪、聖路加通りの入り口(暁橋跡)~聖路加礼拝堂(チャペル)までをレポートしました。
◈その3で「アメリカ公使館跡」から・・・「佃の渡し跡」までをレポートします。
<築地居留地 明治後期> ネットより借用
安政5年(1858)の日米修好通商条約締結後、横浜をはじめ5つの港が貿易港として開かれ、多くの外国人が日本にやって来るようになりました。外国人の居住地は「居留地」と呼ばれましたが、江戸(東京)では現在の築地・明石町に居留地が設けられました。築地には住宅・公使館・学校・病院などの洋風建築が並び、西洋風の異国情緒あふれる街並みが出現しました。
<築地居留地跡探訪マップ>
①浅野内匠頭邸跡碑
②蘭学事始めの地・慶応義塾開塾の地碑
③聖路加(せいるか)病院
*トイスラー記念館
*聖路加病院礼拝堂
④アメリカ公使館跡碑
⑤隅田川河岸・・・セントルークスタワー
➅佃の渡し跡碑
*ミッション・スクール発祥の地碑
⑦居留地跡碑
⑧カトリック築地教会
⑨ガス街灯柱
明治7年アメリカが「公使館」を築地居留地に造営、以後、各国の公使館が開設された(9ヶ国)といいます。明治6年にはキリスト教が解禁、教会も立ち並ぶこととなりました。
聖ルカ通りを進み、聖路加国際大学、聖路加病院(聖ルカ礼拝堂)を過ぎ、鉄砲洲川(跡)を渡ると「聖路加ガーデン」に突き当たります。
この一角に「アメリカ公使館跡」の説明板があります。
鉄砲洲川が流れていた頃、ここに架かっていた橋は「新湊橋」という名前でした。鉄砲洲川は関東大震災後の瓦礫処理のため埋め立てられています。今は信号のある交差点。
明治の居留地地図によると、居留地は実に整然と区割りがされており、各区割りには番号が振られていました。
アメリカ公使館は、①②㉑㉒の区割りに位置していました。
正に現在の聖路加ガーデンのある辺りです。
④アメリカ公使館跡
アメリカは当初麻布善福寺に公使館をおきましたが、文久3年火災で焼失、一時期横浜外国人居留地へと移転、その後、明治7年(1874)に築地居留地に新しく開設し、明治23年(1890)までの約16年間この地に設置されていました。公使館はクリーム色のペンキが塗られた木造2階建てのオシャレな洋館でした。この公使館は明治32年に港区赤坂に移転するまで存続しました。
アメリカ公使館の遺構としては「アメリカ公使館石碑」が5つほど残されています。
前回レポートにあるように、聖路加病院内のトイスラー記念館の玄関前に3つ、聖路加ガーデンタワー前(隅田川河岸側広場)に2つです。
<聖路加ガーデンタワー広場(親水公園)>
・・・トイスラー記念館前と同じような石碑ではありますw。
明治時代の居留地の地図を確認しますと、分岐した築地川を少し南に行ったところに「明石橋」があり、橋を渡ると「東京運上所」と「電信局」がありました。
◉電信創業の地碑と運上所跡碑
運上所とは後の税関のことで、各国との通商条約に基づき、居留地が設けられた築地の地に設置されました。横浜にも運上所が設けられましたが、輸入品の関税に差異があってはならないとのことで、横浜との電信回線が設置されました。「明石橋の跡」あたりに「電信創業の地碑」があり、電信は明治2年に始められたと記されています。
開設された運上所の運営にあたり、明治初期に電信回線が整備され、関税の統一が図られたということは画期的なことだったですね。
運上所は明治5年に、税関という名称に統一され、築地の運上所は、東京税関と呼ばれるようになりました。
運上所跡碑が「料亭水炊き 治作」の前に立てられています。
◈治作は大きな構えの老舗の料亭で、昭和6年の創業。
そこにちょこんと小さな石碑がたっています。
<東京運上所碑>
<電信創業之地碑>
◉明石橋:
江戸時代にも存在した橋で、この小さな一角が「明石町」だったわけですが、大名屋敷が取り壊されて築地居留地になり、その跡地も吸収して現在の明石町になりました。
切絵図に「明石橋」は「サムサハシ(寒橋)トモ云フ」と書かれています。 江戸湾の海風にさらされることからこの名称でも呼ばれるようになったとのことです。
江戸名所図会にも、本文に説明はありませんが、挿絵にその風景が描かれています。 「青海や 浅黄になりて 秋のくれ 其角」の一句も書かれています。
<江戸名所図会 寒橋>
また明石橋はいくつもの浮世絵にも描かれています。
三代広重の「東都名所 明石橋」には「御運上所」も描かれています。
<三代広重 東都名所 鉄砲洲明石橋>
◉あかつき公園
聖ルカ通りの横(南側)は「あかつき公園」となっています。この公園も築地川を埋め立てた跡に作られた公園です。お遊び道具が幾つかあって子供たちが元気に遊んでいました。
公園内に「シーボルト」の銅像があります。
シーボルトは長崎で蘭学を教え、江戸に出てきた時も蘭学を指導してその貢献が大きかったこと、また、シーボルトの娘である楠本いねが築地で産院を開業したことからこの公園内に銅像が立てられたのだそうです。
隅田川河岸に出ますと、ツインタワーが聳えたっています。聖路加ガーデンのツインタワーです。
◉聖路加ガーデン
超高層ビル2棟からなる複合施設で、真下から見上げると天まで届くかと思える巨大なビル、天空に渡り廊下(連絡ブリッジ)があります。当地区全体の開発敷地は約4万平米(=4ha)におよんだそうです。
◈セントルークスタワーと聖路加レジデンス:
セントルークスタワーはオフィスビルで、地上48階(高さ221m)、お隣は聖路加レジデンスで地上38階(高さ146m)です。銀座クレストンホテルも同居しています。
2010年まではセントルークスタワーの47階に展望室があり、パノラマが楽しめたそうですが、現在は、47階はレストランとなっています。
このタワービルは1990年に工事着工、1994年に竣工しました。
このツインタワーの前、隅田川河岸側に探訪の休憩にもちょうどいい広場(親水公園)があります。この建物内でも、外でも腰掛け休憩可、ちょっと風が吹いていれば外も気持ちがいいです。
ネットにこんな図がありましたので借用。当時の河岸(海岸)の様子がよくわかります。
<築地居留地海岸通り(明治30年)>
<築地居留地海岸通り 明治27年>
⑤ 隅田川 -勝鬨橋・佃大橋-
隅田川河岸に出ますと、川上に佃大橋が見えます。川下方面、少し遠くには勝鬨橋をも見ることが出来ます。
◈勝鬨橋:
万国博覧会のメインゲートとして計画され、昭和8年工事に着手、昭和15年6月14日に完成しました。
当時は、隅田川を航行する船舶が多く、陸運よりも水運を優先させる可動橋として設計され、大型船舶の通航を可能とするよう跳開できる橋となりました。 午前9時、午前12時、午後3時の1日3回、1回につき20分程度開いていたそうです。
さらに昭和22年には都電が開通しました。しかし、東京オリンピックが開催された昭和39年以降は、跳開回数が年間100回を下回るようになり、昭和45年⒒月29日を最後に跳開されることはなくなりました。
平成19年6月、国の重要文化財に指定されています。
<番外>勝鬨橋の畔には「かちどきのわたし」碑があります。現在は橋の上から旧築地市場の工事の様子が見えます。
<勝鬨橋橋上から下流方向を望む> 築地大橋
◈佃大橋:
隅田川の渡船場として320余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋で、上流の永代橋、下流の勝鬨橋の交通量の増加、および1964年東京オリンピック開催に備えた関連道路の一部として戦後初めて隅田川に架橋されました。昭和39年(1964)に竣工しています。
当時佃島と月島を隔てていた佃川は佃大橋の道路建設のために埋め立てられ、佃島と月島は地続きになり、同時に佃川に架かっていた佃橋は廃橋となりました。
◈佃の渡し碑:佃大橋の畔に「佃の渡し跡」碑があります。
佃の渡しは正保2年(1645)頃から始まったとされています。隅田川流域では最後まで残った渡船でしたが、昭和39年(1964)の佃大橋の完成に伴い、300年以上におよぶ歴史に幕をおろしました。
ここから「居留地通り」を通り、「築地居留地跡碑」のある明石小学校前へと向かいます。
続きます。
続きますでござる