箱根路石仏群を歩く Part1:芦之湯~石仏群歴史館 | jinjinのブログ

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箱根路石仏群を歩く Part1 芦之湯~石仏群歴史館

<元賽の河原の図>

 

年の瀬も押し迫った12月末、箱根路石仏群を歩いてきました。

あまり人の行かないニッチな場所かと思っていましたが、さにあらず・・・メッカとは申しませんが、国の指定文化財、結構観光客も訪れるようです。

今回は「箱根小旅行Part1」=箱根路石仏群。 この後は芦之湯周辺史跡と箱根三社(箱根神社、九頭龍神社、箱根本宮)参拝を記事にしていきたいと思います。

 

◉箱根小旅行マップ

 

箱根小旅行、スタートは「箱根湯本駅」・・・箱根湯本までは電車で行きました。

この日は快晴・・・車窓から「富士山」を楽しむことができました。 電線が邪魔ですが…・これはやむなし。

 

 

<箱根湯本駅>

 

◉ちょっと腹ごしらえ・・・箱根は「自然薯」が名産とかで、とろろそばを食しました。 

このお店は、店員さんのお姉さん方の雰囲気もよく・・・お薦めです。 国道1号線をちょっと箱根方面へ上ったところにあります。

 

 

◉箱根湯本からバスで「芦の湯」まで行き、まずは旅館に荷物を預かってもらいました。 周り・・・温泉街といった趣もなし・・・雰囲気良好です。  「史跡東光庵」には是非行きたい・・・。 

 

 

◉さて・・・「曽我兄弟の墓」目指して「歩くZou・・・」と国道沿いを登ります・・・。 

旅館からだと530mほど

 

 

この辺りが国道1号線としては最も標高が高いところだそうでして・・・標高874

あの山は上二子山、標高1099m

 

◉地図:曽我兄弟の墓~石仏群歴史館まで・・・

*曽我兄弟の墓付近には、バス停「曽我兄弟の墓」がありますので、箱根湯本駅などからバスで直接「曽我兄弟の墓」まで行くことも可能です。

 

 

◉曽我兄弟の墓(石造五輪の塔)

左手2基が兄弟の墓、右手が曽我十郎の恋人だった虎御前の五輪の塔です。 永仁三年(1295)の銘が刻まれているということです。

 

 

鎌倉時代の代表的な五輪の塔でもあるということで国の重要文化財に指定されているということです。

 

余談ですが、曽我兄弟の墓はあちこちにあり、私の行ったことがある中では、下曽我(JR御殿場線下曽我駅)城前寺に兄弟の墓と幼い曽我兄弟像があります。

 

 

 

曽我兄弟については多く語る必要もないと思いますが、日本三大「仇討ち」の一つ。 江戸時代には能をはじめ多くの歌舞伎芝居の題材ともなりました。享保以降の江戸狂言では初春公演は「曽我物」と決まっていたというほど。 歌舞伎十八番で有名な「助六由緒の江戸桜」の助六も実は「曽我五郎」という設定です。

血筋としては、曽我兄弟の伯母が北条時政に嫁いでおり、北条政子は曽我兄弟の従姉にあたります。

 

<助六> 実は曽我五郎・・・という筋書き

 

曽我兄弟の墓からは遊歩道を歩きました。 いい感じの散歩道です。

 

 

◉元箱根磨崖仏(俗称:二十五菩薩)

鎌倉時代、精進池付近は箱根越えの最高点で、その険しい山道と荒涼たる風景から「地獄」と恐れられていたそうです。 亡くなって地獄へ落ちて行く人々を救おうと、この辺りに石仏が作られたのだそうです。

26体の石仏の内24体が地蔵菩薩で、1体が供養菩薩、もう1体が阿弥陀如来だそうで、地蔵信仰の霊地となったのだとか。 国道の東側に3体、西側に23体の石仏があるそうです。

 

<東側の石仏群>

 

この先から地下道を潜って国道の西側にでます。

なんだか・・・地獄の入り口に入っていく感じ・・・

 

 

地下道を潜ると西側の23体の石仏です。

 

 

 

 

岩肌に小さな仏像がしっかり彫られています。 永仁元年(1293)以降徐々に作られていったとのことです。

 

 

◉宝篋印塔(俗称:多田満仲の墓)

暫く散歩道を歩くと、多田満仲の墓があります。 傍らに立てられた説明板によれば、宝篋印塔には銘文が彫られており、永仁4年(1296)に大和国の石工により建てられたものだとか。

また追刻された銘文には、正安2年(1300)六道地蔵の開眼に招かれた鎌倉極楽寺開山忍性の別名「良観」の文字もきざまれているとか。

 

 

 

◉多田(源)満仲:清和天皇のひ孫で源経基の子。多田源氏の祖。

源頼光の父で、源頼義の祖父にあたり、頼朝のご先祖ですね。

この辺りから右手に「精進池」が見えます。

 

◉精進池の伝承:

江戸時代、この池には大蛇が住んでおり、美しい娘となって江戸から芦之湯に湯治に来ていた庄司という尺八の名人と恋仲になります。ある日娘は自分が池に住む大蛇であることを庄司に打ち明け、やがて天に帰る時には暴風雨になり、芦之湯の村は崩壊するだろうから庄司は早く江戸へ帰るようにと言ったという。 またこのことを他言すると庄司の命はないとも言われましたが、庄司は世話になった村人に一切を話し、村人たちは大蛇の嫌いな鎌や鍬や包丁など金目の物を悉く池に投げ入れたといいます。

 

次の日の朝、池に大蛇の死骸が浮かび上がり、その傍らにたくさんの鱗が突き刺さった庄司の遺体も見つかったという。村人たちは村を救ってくれた庄司の名を取り、以後この池を精進池(しょうじがいけ)と呼ぶようになったということです。

 

 

 

この先に「応長地蔵」と「八百比丘尼の墓」があります。

 

◉応長地蔵

3体の地蔵様を彫り込んだ磨崖仏です。近隣の宮城野地区では、新盆の送り火の時、この地蔵の前で火をたく風習があったので「火焚き地蔵」とも呼ばれたとか。

 

 

◉八百比丘尼(やおびくに)の墓

 

 

応長元年(1311)造立の宝篋印塔だそうですが、一部が失われてしまっているとのこと。

八百比丘尼は800才迄生きたという伝説上の女性。 その伝説は北海道と九州南部の一部を除き全国に広がっているとか。 人魚の肉を食べ800才の長寿を得たという伝承となっていますね。

 

この先に、「六道地蔵」へと向かう地下道があります。

 

 

◉六道地蔵

 

 

 

「六道地蔵」はこの近辺の「石塔・石仏群」の中心的存在で、丸彫りの石像かと思えますが、磨崖仏なのだそうで、磨崖仏としては国内最大級の大きさとか。

銘文によれば、正安(しょうあん)2年の造立で、8月には宝篋印塔で極楽寺住職の良観上人による供養が行われたとかで、六道地蔵の開眼供養もあわせて行われたのではないか・・・ということです。

創建当初から覆屋があり、現在の覆屋は室町時代の礎石をもとに復元されたものとか。 明治時代には覆屋は失われていたそうです(歴史館の説明パネルより)。

 

明治維新では廃仏毀釈の大波もあったわけですが、お地蔵様は良く残ってくれましたね。

「六道地蔵」の名の由来は、地獄とも言われた箱根で、六道を輪廻する人々を救済してくれる存在であるとの信仰から名づけられたのだろうということです。

 

 

六道地蔵様を拝観し、歴史館へと向かいます。

 

◉石仏群と歴史館

 

 

 

 

 

歴史館内にはいろいろな説明パネルが展示されていて、大変参考になりました。 興味深く拝見しました。

その中で・・・今回の探訪に関係ありそうな1枚。

 

 

 

今回記事にしたのは赤い▢の部分。 次回は白の▢部分を記事にしたいと思います。

 

◉歴史館内の石仏

 

 

最後に・・・興味を引いた説明板・・・箱根に地獄があった

鎌倉時代には地獄のような荒涼たる風景が広がっていたといいます。

 

 

 

 

今回もおつきあい

ありがとうござったでございます