谷中全生庵 山岡鉄舟開山のお寺 | jinjinのブログ

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全生庵  =臨済宗=
<山岡鉄舟翁開基、三遊亭圓朝師匠も共に眠るお寺>
 
明治16年(1883)、明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うため、山岡鉄舟翁が、富山国泰寺より「越叟禅師」を迎えて開山したお寺です。
 
 
🏠 東京都台東区谷中5-4-7

☎ 03-3821-4715

🚃 東京メトロ千代田線「千駄木駅」から徒歩約5分

 

山門
 
 

本堂…登って左手が「幽霊画展」入り口

 
 
寺伝によれば、「全生庵」という寺名は、山岡鉄舟翁が、鎌倉建長寺を創建された蘭渓道隆禅師自筆の「全生庵」という額を人からもらい、それを自邸にかけていたことに由来するとか。
図らずもこの地は、700年ほど前、鎌倉時代、道隆禅師が中国から渡って来た時に漂流、九死に一生を得、暫く住した土地であったという。
 
これを奇縁と感じた鉄舟翁は、この地に寺を建て「全生庵」と命名したという。ご本尊には、かつて江戸城の守り本尊だった「葵正観音」の霊像を遷したとか。
 
 
 
 
 

境内に大きな観音様が立たれています。

 
 
 
 

 
 
 
山岡鉄舟
 
 
剣客で、「神陰流」や千葉周作の「北辰一刀流」を修行した。更に、試合を願って負けてしまった中西派一刀流を学び、維新後は、小野派一刀流小野業雄の教えも受けたという。
「一刀正伝無刀流」なる流派を編み出し開祖となりました。
 
禅は…17歳の頃から修行をはじめたとかで、三遊亭圓朝師匠も弟子の一人だったという。 
僧籍をもたない一般人の禅の勉強会なども創始したとか。
書は頼まれれば断らず書いたので、100万枚書したとか…
 
一貫して幕府のために働きますが、攘夷派の清河八郎と「浪士組」を結成します。
この浪士組が「新選組」の前身なのですが、清河八郎は尊王攘夷派、討幕派ですから清河との浪士組結成はよくわからない。
清河に騙されたか?
このことで、鉄舟は謹慎をくらっていますが…
 
偉業の一つとして伝わることは、幕末「江戸城の無血開城」に尽力したこと…勝海舟の依頼を受け、官軍へ乗り込み、西郷隆盛と談判、江戸城の無血開城と徳川慶喜の身の安全を確保のため働いたという。
「勝=西郷」会談にも同席したという。
西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そういう人でなくては天下のことはならない」と言わしめたという逸話も残ります。
 
 

 

三遊亭圓朝

 

歴代の名人の中でも筆頭に巧い落語家だったとか。また、多くの落語演目を創作した。
 
滑稽噺より人情噺怪談など、いわば講談に近い分野で独自の世界を築いたという。人情噺では、『粟田口霑笛竹』や『敵討札所の霊験』、怪談では、『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。
また怪談噺の参考とした幽霊画のコレクターとしても知られ、遺されたコレクションは全生庵蔵として、圓朝まつりで毎年公開されています。
 
全生庵所蔵の圓朝幽霊画コレクションは、圓朝没後その名跡を護られてきた藤浦家より寄贈されたものだそうです。
 
 
●山岡鉄舟と圓朝師匠のお墓はともに「全生庵」にあります。
 
 
山岡鉄舟のお墓
 
 
圓朝師匠のお墓…天龍寺滴水和尚、鉄舟翁から「無舌居士」の道号を贈られたとか。
無舌とは…落語は「舌」で話してはいけない、心で話すのだ…ということだとか。
 
 
 
 
全生庵幽霊画展
 
幽霊がお出ましになるのはやっぱり夏?全生庵「夏の幽霊画展」は以下の通りです。
8月1日~8月31日(土日祝祭日も開館)
午前10時~午後5時迄(最終入館午後4時30分)入館料:500円
 
 
=幽霊画展より(絵葉書です)=

左は「円山応挙作」…怖い幽霊ばかりではありません。
 
右は「綾岡有真」…皿屋敷
 
 
 
 
 
こちらは…ちょっとおどろおどろしい。
右は河鍋暁斎作
 
 
 
 
 
「葵正観音」のご朱印
真ん中の御守りは…その名も「冥途のみやげ」
「葵正観音様」が彫られています。
 
 
 
 
近辺には人気の高い谷中銀座があります。
 
 
 
谷中銀座
 
 
だんだん坂…まだ夕焼け(じゃない)段々
 

 

 

 

朝倉彫塑館
 
 
 
谷中経王寺=日蓮宗= 
慶応4年、彰義隊の兵士を匿ったため官軍の攻撃を受け、門などに鉄砲の弾の跡が生々しく残っている。
 
あの穴も…弾の跡のようです…