PFF課外授業レポート(2015.6.2)山戸監督 おとぎ話みたい/Her Resを観ました | カピバラ日和

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 テアトル新宿にて開催された「夜のPFF課外授業 入門!インディペンデント映画」を受けてきました。6月2日は山戸結希監督の「おとぎ話みたい-完全版-」「Her Res-出会いをめぐる3分間の試問三本立て-」でした。どとらもインターナショナルバージョンということで、英語字幕つき。英語は苦手ですが、これはレアすぎて行くしかないと思いました。



 英語字幕すばらしすぎた。後述します。

 まず山戸監督(以下、山戸)のトークより備忘録を書き起こします。毎度のことながら敬称略すみません。
(聞き手:PFFディレクター荒木啓子さん。以下、荒木。)


荒木「COSMOSのMV がモノクロなのは意図が?」
山戸「歌詞に"君色の世界に"ってあるんですけど、観てる方に色を付けてほしいと思って。」


荒木「山戸監督の豊かな言葉を英語の字幕に訳す苦労など訊こうかと思っていましたが、山戸監督はロジカルな のであまり苦労はなかったのかなと感じました。そこで、予定を変更して、山戸監督の頭の中はどうなっているのか?ということで、訊いてみたいと思います。 映画の最初のアイデアはどこからくるのか、物語?シーン?音楽?」
山戸「役者さんがいないと始まりません。途中で役者さんが変わったりしてもダメ。身体性の均衡をとるから。言葉を最初にしてしまうと違うというか。主役を誰にしようか、自分で考えて、その相手によって変わっていく。」
荒木「上埜さんの体験談などは?」
上埜すみれさん(以下、上埜)「その場で変わることは多いです。1ページ増えたりとか。臨機応変に。」
荒木「おとぎ話みたいは音楽ありき?」
山戸「曲も登場人物として考えました。」
有馬センパイ(以下、有馬)「どこでどの曲をはめるかとか、最初からあったみたいです。」
山戸「字幕では、歌詞を全部載せてやろうと思ってた。普通は情報過多になるからやらないことでも、自分はやろうと。主体的に字幕に関わることは今までな かったんですが。歌はメロディと言葉でできてるから、言葉がないとメロディしか伝わらないと思ってた。でも、おとぎ話の歌において言葉やメロディを抜いて も有り余るものがあって、その心みたいなものをダイレクトに伝えるのが音楽の本質みたいな。だからセリフと被るところなどは省きました。歌詞は、どうしようもない曲なら全部載せてました。」
有馬「怖い怖い(笑)」

荒木「音楽と踊りなしには成立しないと思うんですが、山戸監督は踊らないんですか?」

山戸「心の中では踊っていました・・・」
有馬「テンション上がった時のダンスは最高ですよね。パラパラみたいな。」
山戸「・・・あれは阿波踊りです。」
有馬「阿波踊りか(笑) エキストラさんが真似したり(笑)」
荒木「アテ振りしないんですか?Her Resの机の上を駆けていくシーンとか(試問一.永遠に正しく出会えない私達)。」
山戸「やれないです。みなみちゃんが膝にいっぱいタンコブ作ってやってくれました。あのキスシーンも、実際に付いちゃってるじゃん、大丈夫なの?みたいな。2月に水被って大変なことになっちゃったり(試問二.救済)。これが自主映画の危険性というか・・・」
荒木「上埜さんは、現場での監督について何かありますか?」
上埜「本当に変わらなくて・・・早口で『こうだからこうやった方がいいよねやってみて』みたいな。」
有馬「似てる(笑)」
山戸「あくまで提案なんです。提案しようという意思。」
荒木「何度も撮り直したりするんですか?」
上埜「練習よりは即興性ですかね。」
山戸「それは半々ですね。回数ではなく要素として。反復による一回性というか。演劇とは違って再現不可能でも、その一回が撮れればいいというか。」

荒木「山戸監督は美術にもこだわりがありますよね。衣装から音楽まで、全部決められるんですか?」
山戸「そうですかぁ?デザイナーさんやスタイリストさんと話し合って、やってもらいます。スタッフと共有するのは脚本だけですね。おとぎ話の音楽を聴いてない人もいるんじゃないかな。」
有馬「流れです。ホンの流れで。」

荒木「音楽のシーンは全部一緒に撮影を?」
山戸「私はライブシーンを午前中だけで撮ろうとしていて。助監督さんとかには、ええっ?って言われたり。」
有馬「だからめっちゃ朝早かったです。朝5時とか。エキストラさん朝5時集合。僕らは5時半からライブです。それで、『普段のライブのつもりでやってください』って。」
山戸「予算の無さ故の疾走感というか・・・」
有馬「もう時間がないんで、プロのカメラマンさん、一人一人をすさまじい角度で撮っていくんですよ。腰いっちゃうんじゃないかっていう。4カメです。我々は最初からマックスです。最後はドラッキーな踊りになったり。」

荒木「自主といいつつ空撮とか追撮とかもされて。」
山戸「当時はできなかったんですが、ラジコンヘリが出てきて安く撮れる状態になったので。」
荒木「やりたいと思ったことを絶対実現してやる、というか、忘れないというか。」
山戸「商業映画だと、もう公開してるからみたいのがありますけど、逆にインディペンデントだからできるということが。おとぎ話みたいは完全版とインターナショナルバージョンを作って、早くも再編集したくなってます。生きてるとどうしても変わってく。一緒に成長ということで。」
荒木「皆さんは追っかけ続けないといけないですね(笑)」

 去年に群馬と京都、そして今年愛知で公開されたあの娘~も再編集を経た完全版だし、5つ数えれば~もソフト収録の折に再編集の話がありましたよね。個人 的には公開したままのフィルムで勝負して頂きたいのですが、インディペンデントくらい好きにして頂くのもよいかもしれません。そういう監督は珍しいかな? 意外といるのかな?


荒木「初期の山戸さんを知ってる上埜さんですが、上智の映画研究部を立ち上げた山戸監督はどんな感じでしたか?」

上埜「さっきから変わらないって話ばかりでつまらないんですが、やっぱり変わらないです。」
山戸「この3年、特に成長していない?」
荒木「いつも映画のことを話してるんですか?」
山戸「私とすみれちゃんは撮影の間はビジネスライクな関係なので。」
荒木「人間のこと、映画のこと、どう考えてる、とか。」
上埜「軽い話題が多いですね。映画とは何か、みたいなことを話すのは無いです。彼女の中にはいろいろあるんでしょうが。」
有馬「僕ともビジネスライクな関係です。この距離感。一人(上埜さん)を挟んで、みたいなこの距離感です。むしろトークショーの方が距離が近いというか。」
山戸「そうですね、有馬さんが茶髪になってるの初めて見て。」
有馬「久しぶりに会ったと思ったら『その髪で人前に出るの初めてでしょ?』みたいな。だいぶ前からこれです。」
荒木「常に映画についてみんなと考えているわけではなくて、その時に出てもらいたい人を口説いていく、という感じなんですね。」
山戸「”これを最後のインディペンデント映画にしよう”と思っておとぎ話みたいを作って、これを永遠に
続けていくことは無理だと思いました。Her Resだとランドセルを自分で買ったり、それは大した値段ではないんですが、高まりすぎて上智大学の警備員さんに飛び蹴りしたりとか。PFFから電話がかかってきたことが、この3年間で忘れられないことです。PFFというのはどういうものか皆が知ってるので、それから協力してくれる人が増えた。ちょっとおかしい人なのかなと思われるところを、一応そういうところから声は掛かってるんだ、そうは見えないけど、みたいな。おかげで撮り続ける体制につながった。逆に、一生に一回、人生最後のインディペンデントだから、おとぎ話みたいに力を注いだ。」
荒木「自分が何をやるべきとか、ちゃんと考えている、ということですね。」
山戸「考えざるを得なかった。」
有馬「こっちは追撮がこないかビクビクしてます。高校生役はきつい。」
山戸「牛尾さんとか、当時もうもうギリギリ(笑)」
荒木「Her Resは学校中を巻き込んでやったんですよね。」
山戸「なにしてるか分からない人も多かったとおもいます。」
荒木「最近、日常的にはどんな音楽を聴いていますか?」
山戸「最近は・・・今日は、島唄を聴いてテンションを高めてきました。」
荒木「意外と土着的(笑)」


 山戸監督はわりと色々な映画を観るようだけど、同じくらい色々なマンガを読んだりしてそう。映画ヲタク(シネマフリーク)というよりは、強いて言うなら哲学ヲタクのはず。



以下、一般の質問。


Q「独白が印象的なんですが、普段から想いを書き留めたりとか?」
山戸「映画を撮るようになってから、自分の言葉を人にみてもらえるかもしれない、と思うようになって。 自分の映画と出会ってもらって、言葉が届きうる人がいると思ってから、何でもネタ帳というか、日記すら読まれる前提というか…これは比喩なんですけど。良 かれ悪かれ他者の存在が影響してきている。それがなければ、映画、小説、マンガ…マンガは描けないんですけど、それを書かずに、哲学の論文に力を入れるだ けになって、かえって私的な語りという真実から離れていくのかも。小説やマンガは内に潜っていくもので、映画もそうだが、特に映画の場合はスタッフさんと どんどんコミュニケーションとらないと作れない。宣伝でも、これはどういう映画で、何を伝えたいのかとか喋らないといけなくて、常に外側に開いていきながら、内に潜っていくという、そういう不思議な二面性がある。誰も知らない状態で今もし何か書いたとしても、誰も見向きもしてくれないと思ったら、平面的に内面に潜っていくのと、両輪で、一方では開いていくという。どこかでいつか誰か"とっておきの他者"がいると思って書いてるんですが、それが本当の意味での独白なのかという…」
荒木「つまり、山戸結希に社会的な意識が生まれてきたということですね。」
山戸「一言で言うとそうです。」


Q「山戸監督が審査員を務めたミスIDの堀越千史さんのファンです。堀越さんについても映画を撮るイメージはある?」

山戸「その人の持っているシーンのイメージが強烈に立ち上がって、それが同心円状に広がっていって、それを入れる容器が映画ということ。もし身銭を切ってできるようなことがあれば、2人で進めていける。でも、映画を作るのは、言葉にできない彼女の魅力や可能性を言葉にして、可能性なんて言葉にしたら限定的になってしまうけど、説明しなきゃいけない。自分が潜っていくのと同時に、外に開いていかなければならない。気持ち的には、ロックオンしています。」


Q「あなただけが私の田舎でした、とか、具体的な対象はいるんですか?」
山戸「あなただけが私の田舎でした、とか、目で読むと二次元的平面的ですが、人が話すとグルーヴが生まれるというか。言葉は、いつか現れるかも分からない、私から一番離れた他者のために書 いてます。そして、世の中のたくさんの岐路、人の人生にインパクトを与えなければと考えていて。例えば、シネコンとTSUTAYAしかない、お洒落な映画 館とかない、そんな田舎の人とは、今日のお客さんは違うとは思いますが、そういう人たち。そして、青春を拡張したい。田舎で泣いている少年少女ではなくて も"今日こそが岐路"みたいに思える、青春が内的に続いている人のための、拡張した青春映画です。」

荒木「映画館は本当になくなってきていて、東京に出てきて初めて映画館に入ったという人も。地方では、映画館へ行かずに一生を終える人もいるのではと考えられている。映画は独りで観るという文化も大きい。だから、ある程度年齢のいった人に、若い人を連れてきてほしいという運動をしている。嫌がられてもとにかく連れてきてください、と。体験として培われないと映画館は根付かないから。」

山戸「すみれちゃんとみなみちゃんが歌っているカラオケも、体験してほしい。ここがカラオケならいいのに。」
荒木「伝えたい想いの蓄積?」
山戸「夢に見たシーンを描く人もいる。私も、懐かしいけどこれは経験したことない、とか、見たことのないなつかしさ、デジャヴみたいなものを大切にしている。」

Q「身体性という言葉がでてきたので、上埜さんと有馬さんの好きな部位を教えてください。」

山戸「みんな好きですが、有馬さんは茶髪のこうなってるのが・・・」
有馬「わりと最近だけど!」
山戸「帽子の中がどうなってるか気になりますよね。」
有馬「ふつうです。」
山戸「すみれちゃんは、スリムなんだけど、この肉感がいいです。」


Q「ナレーション(モノローグ)のためにプールの周りを廻らせたりするのは、私の考えでは、ある意味で映画になれなかったということではないか。」

山戸「何が一番生きていて大事かって、人に『これは映画だね』って思ってもらいたくて作っているわけではなくて、真に映画的であることはOFF にしている。他のことを考えている。その指摘は鋭くて、おとぎ話みたいの脚本を大先輩の映画監督に見てもらって、同じことを言われました。『"揚げる私の左足は愛の言葉と同じこと"って、それを言葉で言わせるのではなくて役者の表情でやらせるのが映画なんだよ、そう撮らないとダメなんだよ』って。その論理性も、公開されてからの違和を考えてもそれは合ってると思いましたが、それでも、私には、このようにしか撮れなかった。 私の映画の主人公たちは死ぬまで口をつぐむことはないでしょう。そういう意味では、あなたと私の映画観はすれ違うものかもしれない。その苦い想いがありな がら、出来上がった作品が上映されたら、私は言葉にできない高揚感に包まれた。言葉がこんな風に鳴るんだ、と。言葉が強くてそこを占めてしまうのではなく て、言葉では語れないからこそ、言葉は大きさを変えずにその外側が更に拡大するというか。頭の中で鳴っていた言葉が、二度と描けないほど美しく響いてい た。その現象を前に、どちらが映画的であるかなんて相対的な問いは存在しないのではないか。そんな自分の気持ちと、果たしてこれは映画的であるか、言葉が なければ掴めたものがあるのか。でもその問いは保存されたままで…。」



以下、偏見にまかせて、ヤマトンバッシングを雑にまとめて全方位disします。

 以前より、シネフリな方々を中心としてると思うんですが、説明セリフがダメとか、役者の使い方が分かってないとか、おにぎらずに対して「握らないとダメなんだよ」って言うようなダサさを感じます。
シネフリって、そんなに偉いんですかね。シネフリのご機嫌や嗜好を違えた映画は悉く駄作なんですかね。
もっと言えば、シネフリが日本の映画界の趨勢を決めるとして、僕の、そして他のヤマトンフリークが山戸監督作品を観て感じた、他の作品では得られなかった この情動は、マグニチュード8級の心の揺らぎは、映画というものを知らないが故の間違った感情だとでも言いたいのですかね?そんなものに感動するのはシロ ウトで、本当に良いものを知っていたら見るに堪えないものだ、と。
 だとすれば、人の感傷に正しい間違ってるとか、優劣とかを決めつけて、下界の者を睥睨して悦に入るのがシネフリの本質なのだとしたら、そんなツウ気取り なんて一人残らず滅べばいいと思う。さもなくば地下に潜ってヲタクだけで暮らしてシャバの人間に因縁つけるのはやめて頂こう。
 あの娘~でカメラが揺れたり音がガサガサしてたりするのを誉めるのはさすがに盲信的だと思うけど、言葉が過剰なのを頭ごなしに否定するのは言葉を心象や 事象の情報を載せるメディアとしか捉えていないからであって、それに意識を向けるあまり、映画において言葉が鳴る、その美しさを感じとれなかったのではな いでしょうかね、高尚なシネフリどもは。
 過剰な言葉によって隠される何かが貴重なのはその通りだと思うけど、矢衾のような言葉によって生み出される稀有なものに気づけないのか、美しさを感じられないのか、映画を観まくるあまりその鈍感に至ったと思われるシネフリには、心底同情を禁じ得ない。
 ツイッターでいいこと言うな、と思ってたシネフリの方々も、言葉が多いだけで山戸監督作品を門前払いしている人もいて幻滅した。


 ここまで書いて、シネフリにとっての映画は、私(ソバフリ)にとってのざるそばなのかな と思えてきた。私はざるそばを食べるとき、ほとんどつゆをつけず、薬味も使わない。蕎麦の香りと喉越しが大切だと思っているからだ。蕎麦粉が少なくコシの ない蕎麦は邪道だと思っている。でも、蕎麦粉少なめのそばにたっぷり薬味をかけてつゆをつけて食べるのも、蕎麦的ではないが、それはそれで食い物としてア リと思えることもある。
 山戸監督作品は「青春映画の金字塔」(5つ数えれば~)と銘打たれたりこそすれ、いわゆる映画の中の映画を標榜しているわけではない。映画的でなくても、映画的なものとは違う方向性だからこそ見えてくる美しさにも目を向けてよいのではないか。



 さて、今回もサプライズがあり、客席から一般客に扮した飯島みなみさんが「なぜ役者にあんなにセリフを喋らせるのか」「なぜ映画を撮るのか」と質問し、山戸監督が言葉を詰まらせると、上埜さんが歌い出す、という手の込んだもの。生演奏は有馬先輩!!
  飯島さんがいることには気づいていて、自分にとってはあまりサプライズではなかったけど、そんな気持ちも怒濤の山戸ワールドに呑まれてしまった。去年テアトルでHer Resをやった時と同じ曲かな。あのサプライズはトラウマ級でした。

 上埜さんといえば井口監督プロデュースのノーメイクスとしてアイドルデビューしましたね。ビックリでしたね。劇団のお仲間がチラシを配っていました。舞台も観たい。



 さて、話が前後して、映画本編。
 英語字幕になって理解が深まるかと思ったら、やはりその通り。

  タイトルは順当にLike a Fairly Tale。
 副題の「だって、いつも笑ってばかりの君に」はwell, always grin a...何とかみたいな感じでしたが(雑)、笑う」がgrinだったのはポイントです。 grinは確か声に出さないような北叟笑むみたいな(* ̄ー ̄)ニヤリみたいな笑いだったと思います。

 劇中でまず気づいたのは、難しい言葉が簡単になって分かりやすくなってた。例えば、冒頭そして件のプールのシーンのモノローグ「足りないということはかつて満ち足りていたものがあったという証左に他ならないのだが」の「証左」をproveと訳していた。シンプルだ。
 これまで、屋上で先輩と遭遇した高崎さんが「おとぎ話みたいって思っちゃった」と言うのに「そんな風に言わなくて大丈夫だよ。高崎さんの踊りは東京でもきっと鮮烈だよ。」 とフォローする流れがよく分かりませんでしたが、字幕を追ってて納得。あれは、高崎さんが自分の東京進出のことが不安になって吐露した気持ちを、新見先生がすくってあげた場面だったのですね。その他にも先輩の話がでてくるところは日本語だと主語が曖昧だったりする部分で英語の良さが発揮されていた。逆に、河西さんが高崎さんを井土さん…スギモト先生のワークショップに誘うシーンで、「すごい人なんですよ」と河西さんを推す新見先生と、「有名ですもんね」とスギモト先生のことを言う高崎さんとのズレは、河西さんをshe,スギモト先生をheと訳さざるを得ず、性別を明らかにせずに話を進められる日本語の妙がなくなってしまい面白さ半減。仕方ないんだっちゃ。

 夜の社会科準備室に忍び込んだ高崎さんが新見先生に言い寄るシーン。「私のこと好きでしたよね?Love me too, Sir?(的な感じ)というフレーズが活字でリフレーンされて狂気が増していて良かった。

 卒業式を抜け出した高崎さんを新見先生が追いかけてくるシーン。ここのセリフで聞き取れないところがあったけど、as a model になっていたので「あなたのこと雛型と思ってしまうと思う」でよいのだと分かった。
 その後に「そんなおとぎ話みたいに上手くいかないでしょ」と再度フラグをへし折る新見先生に、「そんな風に笑うのね」と悲しく言う高崎さん。ここの「笑う」はlaughであった。(5つ数えれば~で宇佐美に告白して透かされた都が言う「そんな風に笑うのね」もたぶん同じ)
 「おとぎ話みたいだと笑う君」という点では同じなのに、副題の笑いは静かな微笑みで、このシーンの笑いは声に出して( ^∀^)ウケルーみたいな笑いなのだ。じゃあ副題の君って誰なの、、、謎が深まるばかり。

 屋上で踊り狂うシーン。「私、もう若くはないのよ。次の春には屍なの。先生、その時は私をシカンして下さいますか?」が「視カン」なのか「屍カン」(※自主規制)なのかいまいち悩んでいたけど、Loves my corpusと訳されていたので、後者だとわかった。


まとめ。
  英語字幕には良さしかない。もっと色々な人に観てもらうべき映画だが、変態ヲタクが貴重な座席を一つ埋めてしまい申し訳ない。
 山戸監督の言葉はロジカルだから英語がハマるという解釈は面白い。この変態さはフランスとかで評価される可能性あるかもだからフランス語にも訳してみて下さい(言うだけタダの精神)
 山戸監督が目を向ける想定対象とか、有馬さんや上埜さんとのビジネスライクな関係が興味深い。あと、山戸監督が自分の気持ちを整理しきれてない部分があるのかなと思えてきた。もっと知りたい。