世界は美しい
はじめましての方へ
こんにちは! mayumiと申します。 ご訪問ありがとうございます!
私は「世界が美しい」と感じられる人が一人でも増えたらいいな、ということを結構本気で思っています。
共感していただける方、なんかそれいいね、と思って頂ける方、ぜひぜひ一緒に仲間になれたら嬉しいです。
Amebaでブログを始めよう!
こんにちは。

いつもお読み頂き、有難うございます。

タイトルの通り
今週来週あたりは
他に優先したいことがいくつかあり
少しの間ブログをお休みします。


以前、体調不良で

突然何日か
更新が途絶えてしまったことがありました。

お休みしている間も
訪問してくださった方や
メッセージを下さった方
気にかけてくださり有難うございます!



今回は体調不良ではありません。

自分の中で
これからの人生の転機に
さしかかっている時期で
後悔しないように決めたいことがあります。

また、なんらかの形で
ご報告できたら嬉しいです。




今日も有難うございました!

新米の美味しい季節になりました。

土鍋の蓋を開けると
湯気とともに
キラキラと輝く一粒一粒のご飯。

まるでいのちを吹き込まれて
身体全体で生まれてきた喜びを
表わしているような輝きに

今日も炊けたねー!
と思わず笑みがこぼれます。



毎日のことなのに
感嘆の声を上げてしまいたくなる
大好きな瞬間です。

ふんわり優しくほぐした
炊きたてご飯は
塩むすびにしましょうか。

ご飯に合うおかずもいろいろありますが
まずはシンプルに
お味噌汁とお漬物と一緒に食べるのが
好きです。




毎日の食事
毎日のごはんを
ちゃんと作り食べるようになるだけで
いろいろな悩みは解決される気がします。

少なくともその瞬間だけは
心の底から胸いっぱいに広がる
しあわせを感じられて
また頑張ろうという気持ちにさせてくれます。

味付けが美味しいとか
健康にいいという次元を超えて
心が満たされるごはんってあるんだなと
最近改めて思うようになりました。


---


私はずっとそういうものを
求めていた気がします。

小さい頃からある程度まで
ごはんの時間はただ空いたお腹を
満たすためのものでした。

好き嫌いも多く
冷凍食品やお惣菜
せっかく作ってくれたおかずも全て
かたくなるほどレンジでチンして
食卓に上がっていました。

とくに中学時代は
部活でくたくたになって帰ってきて
家では勉強が残っていたので
ごはんは唯一の楽しみの時間でした。



しかしお腹は満たされても
心はなんだか満たされません。

家族がそろって食べられることも少なく
疲れた背中で母が食器を洗っているのを
見ながら食べていました。

いつも少し切ない気持ちで
食卓をあとにしていたのを覚えています。





あるとき、父が早く帰ってきたときに
たまたまごはんを作ってくれたことが
ありました。

普通の野菜炒めとお肉をソテーしたもの
だったのですが出来立てを食べて
野菜ってこんなにシャキシャキしていて
お肉ってこんなに柔らかいんだ
と感動しました。

私の喜びようを見て、それを機に
父がときどき作ってくれるようになりました。



よく分からないけれど
涙が出てきそうなほど
心がぽわんと温かくなる。

何が違うのかわからないけど
すごく美味しい。
もっと食べたい。
自然と笑顔になる。

美味しいごはんって
人を幸せにして
心を満たしてくれるんだなと
実感しました。



---

それから大学に入り
一人暮らしを始めると
自分でも美味しいごはんを作って
食べたいと思うようになりました。

ただ、それまでは
家庭科の調理実習くらいでしか
料理をしたことがなく

何をどうしたらいいのか
途方にくれてしまいました。



今考えたらありえないような
初歩的な失敗をしたり
焦がしてしまったり
味が濃すぎたり

なんとか食べられるレベルのものを
作るのがやっとでした。



心が満たされる美味しいごはん
以前のレベルだったので

料理本を読んだり
料理番組やyoutubeで研究したり
カウンターのあるお店では
調理の様子をを観察したり

同じ料理を何日も続けて作って
練習しました。

一人暮らしだからこそ
できることですね。




また食事に連れて行ってもらって
いろいろな味を知ることで
昔苦手だった食べ物も
ほとんど食べられるようになりました。

今では、なんでこんなに美味しいのに
食べられなかったんだろうと
不思議に思うくらいです。


---

少しずつ料理にも慣れてきて
楽しさと奥深さを感じるようになりました。


次第に食にまつわるあれこれ
食材や産地、栄養や健康、器や道具など
いろいろなことに興味が出てきました。

無農薬のお野菜を試してみたり
マクロビをかじったことも。

美味しくて有名なお店に
食べに行ったこともありました。



もちろん
身体にも良さそうで
見た目も美しくて
味もおいしいんです。

でも必ずしも
目の覚めるような感動を
味わうことばかりではありませんでした。

私の求めているのは
ただのグルメな経験でも
健康オタクな食事でも
ないんだなと気づきました。



贅沢だと言われてしまうかもしれませんが

心が震えるようなごはん
食べると元気になって
力がわいてくるようなごはん
人生が変わるような一皿、一杯

そういうものを求めている。

やっとおぼろげながら
毎日のごはんの中で
目指すものができたときでした。




感動する料理は何が違うのか。
どうやったら作れるようになるのか。

道具や技術以上に
大切なものがあると思います。



そういうごはんを作れるようになるには
日々の中で変えていきたいことや
心がけていきたいことが
まだまだ山ほどあります。

たかがごはん、されどごはん。

自分のためにも家族のためにも
作れるようになりたいなと思います。


---


いちばんの基本となるご飯は
土鍋で炊き始めて3年。

最近やっとキラキラ輝くお米が
土鍋の中で水と出会い
喜び踊っているのを
感じられるような気がします。

毎日ご飯を食べるのが楽しみです。
昔はパスタばかり作っていましたが
いまは毎日ご飯です。

次はお味噌汁、そしておかずも。



天地の恵み
いただきます。




今日も有難うございました!


水を置いておくだけで
勝手に熱湯になることはない。

熱々のコーヒーも
そのまま置いておけば
自然に冷めていく。



生き方も同じ。

何もしなければ放っておいて
勝手に心が熱くなることはない。

心の奥の熱い気持ちも
何もしなければ
自然と冷たくなっていく。

周りや環境のせいにせず
自分で自分の心に灯をともして
熱い気持ちを思い出す工夫を
することが必要。


---

水は
高いところから低いところに
流れていく。



生き方も同じ。

私たちも意識しないと
よりラクな方に流されていく。

手を抜いたり
自分との約束を守らなくなったりする。

易きに流され怠けるのが
「ありのまま」ではない。


自分の本質に近づき
本来持っている輝きで
自分と世界を包み込んでいく。

そのためには
原点に戻り
心に灯をともし
手間を惜しまず丁寧に生きる。

自分のできることを
自分のいまいる場所で
果たしていく。


---

水は流れることで
新鮮でいられる。

留まっていれば
次第に腐っていく。



生き方も同じ。

自分の持っているものや
できることを惜しみなく出すことで
新しいことに気づくことができる。

誰かに何かしてもらうのを
待つのではなく
自分から動いていく。



---


水は温度が上がると
性質が変わる。

でも100度になるまでは
変わらない。



生き方も同じ。

なかなか変化が実感できなくても
ある一定ラインを越えたら
突然ぐっとレベルアップする。
結果につながるときがある。

それまでは
焦らず、腐らず、騒がず

今やれることをやって
じわじわと温め続けながら
信頼して待つ。






今日も有難うございました。

お久しぶりです。

このところ久しぶりに熱が出たり
治ったと思ったら目が痛くなったり
しばらく体調を崩していました。

お休みしている間も
訪問してくださった方や
メッセージを下さった方
気にかけてくださり有難うございます!



体や心が緩んでいないと
自分のことでいっぱいいっぱいに
なってしまいます。

体が冷えて固まれば
心も冷えて
考えもかたくなり
行動も鈍くなる。

そういうことが続けば
人間関係も偏り
深い付き合いをするのは
難しくなるでしょう。




違和感を感じたら放置せず
リラックスできる時間をとる。

自分自身を
よい状態に整えておくことが
大切だなと改めて感じました。

特別なことより毎日の生活を。



心と体を元気にする
ごはんを味わう。

力んで固まっている体を
温めてゆるめる。

いつも過ごす空間を
居心地が良い場所に整える。

安心できる空間で眠る。

丁寧に作られたもの
美しいもの
完成度の高いものに触れる。

忙しいときほど
前向きで明るい言葉を使ってみる。

深くて長い呼吸を心がける。

太陽の光や風を感じ
自然に触れる。

志高く、一緒にいて
気持ちがいい人との時間を増やす。

感じたら先延ばしにせず
すぐに動く。




体は魂を入れる器のようなもの。

心と体と現実のズレをリセットして
仕切り直していきたいなと思います。


有難うございました。


今日は短めに
さくっと感じたことを。



何がベストな答えか
何がベストなやり方か
なんてすぐにはわからない。

大切なことや大事なことほど
何が正解なのか分からないもの。




ただ、不正解かどうかは
自分でも気づくことができるはず。

全力を出していないことがあれば
自分にはわかる。

これくらいでいいかな
と手を抜いたことも
自分には分かる。

何かが違う
これはだめだった
もっと別のやり方をすべきだった

という心の違和感は
自分が一番知っている。




そんなとき
でも・・・
だって・・・
これくらい・・・
と言い訳することは簡単。

そうやってつい
自分を正当化したくなってしまうもの。

でも自分だけはごまかせない。

そういうときこそ
逃げないで現実を直視する。




もっと良くすることはできないか?
何のためにやっているのか?
自分の命をどう使いたいか?
自分がいま一番やるべきことは何か?

常に問いかけ
その都度、答えを上書き更新して
再定義していく。

やってダメだったら変えてみる。
変えたらまたやってみる。
よさそうだったらしばらく続けてみる。

試行錯誤して、改善を繰り返す。




100% 正解の答えなんてないが
自分の中で現時点で正解だと
思えるものに全力を注いでいく。

できることを
できるところから
できる限り。



有難うございました!

こんにちは。

前回の「安易に理由づけしない」
という記事では
潜在意識の話にふれました。


私たちの自覚できている部分
(意識、思考、選択など)は
ごくわずがで

大部分が無自覚、無意識の領域に
支配されているということ。

目の前に起こる出来事に
それらのすべてが反映されているが
無意識の領域の想いが
現実化していることも多い。

それゆえ出来事や感情に
いま意識できる範囲で
意味づけをしようとしても

それは自分が都合よく作り出した
ストーリーになっている可能性がある。

ということを伝えようとして書きました。



頂いたコメントの中に
前回の記事を
分析してくださった方がいました。
ほしのみのる さん

鋭い切り口で
興味深かったです。


他にも
この記事を書いている私自身が
「理由づけしないことへの理由づけ」
を書いていますよね
とご指摘くださった方もいました。
i can see a rainbow さん

その通りです。
そうやって読むと面白いですよね。




ただ
自分のことを棚に上げて
理由づけすること自体がよくない!
と言おうとしていたのではなく

自分の人生にとって
あまりいい影響をもたらさないような
「安易な」理由づけをしているとしたら

そこに気づけば他の選択をすることも
できるということ。

そこが一番
伝えたかったメッセージでした。

とはいえ、前回の記事では
そこまで書ききれなかったので
言葉足らずでモヤっとした方も
いらっしゃったかもしれません。


---


そもそも私たちは
自分なりのフィルターを通して
ものごとを見ており

完全に中立の姿勢で
事実だけを淡々と見続けることは
難しいと思います。

※瞑想中などは一時的に
その感覚を味わえます。



数年前の私は
「安易な」理由づけどころか
自分や周りを責めるような理由づけを
することが多かったです。

相手が不機嫌そうな顔をしていたら
何か気に障ることしちゃったかなと
内心びくびくして
やっぱり自分はダメだなーと思ったり

過去を掘り下げることもしていたので
自分の性格がこうなったのは
親との関係性が問題だったに違いない
と結論付けたり。




しかし
そういうやり方での理由づけは
何も生み出さない
と、あるとき気づきました。



それまで私は、自分はおそらく
アダルトチルドレンと呼ばれるものだと
ラベルをつけていたので

問題と感じられる出来事が起きると
そこに理由を求めていました。



だから
インナーチャイルドを
癒さないといけないと思ったり
親を許して感謝して
自分を愛して

あれしてこれして・・・

カウンセリングやセラピー
ワーク的なものやブロック解除など
いろいろと試したことがありました。


もう頑張るのに疲れ
人との関わりを断ち
出家したいと思って
お寺に修行に行ったことも。

いっぱいいっぱいで
闇の中を手探りで
歩いているような気分でした。




しかし
心は追いつかないまま。
現実も変わらないまま。

似たようなパターンの出来事が起きれば
相変わらず怒りもわくし
ふと思い出せば
もしあのときこうしてくれていたら・・
と改めて思うこともありました。

行き場のないモヤモヤの処理に困り
ひたすら自分のことばかり考えていることに
二重の自己嫌悪になったり。

過去を恨めしく思ったり
自分を責めたりすると
エネルギーが下がる感覚もありました。


---

過去に戻って
もう一度やり直すことはできません。

では、もうどうにも
ならないのでしょうか?

時間が癒してくれるのを
待つしかないのでしょうか?


せっかく生きている今を
過去に縛られたままで
生きにくいのはもったいない。


そう思って
いろいろ試行錯誤した結果
私に効果があったことを
このブログでは書いています。

自動的にしてしまう
「安易な」理由づけ
以外の選択肢に気づく
というのもその1つです。



---

具体的には
自分の人生に意味のあることだったから
起きたのだという前提で
過去を捉え直すことをしました。

親子関係でいえば
今の親のもとで育たなかったら
学べなかったことや
経験できなかったことが
きっとあるはずです。

自分の魂は
この時代、この日本で
なぜこの両親のもとを選んで
生まれてきたのでしょうか?


壮大な理由づけですが
抽象度を上げるための問いです。


あるいは、思い出すと
ものすごくつらいこと
だったかもしれないけれど

神様(のような存在がいるとしたら)
自分に何を学ばせようとして
その状況を経験させたのでしょうか?



そんなこと考えたくもない
と思うかもしれませんが

心を静かに問いかけてみると
ぽっと答えが浮かぶ瞬間が
あるはずです。

これは過去の出来事だけではなく
目の前に起こる問題にも使えます。


---


心理学でいうと
「アドラー心理学」のスタンスに
近いです。

少し前に流行った『嫌われる勇気』
という本もアドラー心理学について
書かれたものです。



簡単に説明すると
アドラーは、フロイト、ユングと並ぶ
心理学者の一人なのですが

アドラーとフロイトは
立場が全く逆です。



フロイトは
過去から現在という視点で捉えるので

今起こっている問題は
過去のトラウマなどが原因で起こっている
と考えます。

フロイトの立場だと、私たちは
過去に支配され、常に影響を
受けながら生きているということに
なります。

前回の記事もその流れで書きました。
また私自身、最初は過去を掘り下げる
アプローチをしていました。




一方でアドラーは
現在から過去という視点で捉えます。
今を基準に考えています。

フロイトの立場に対して
過去に支配されているとしたら
私たちの人生はもう決まっているので
変えられないことになってしまう。

それだと決定論の世界になってしまって
自分の運命が決まっているようなもの。

そんなのつまらない。
過去の事実は変えられないけれど
今を変えたら、過去の意味づけは変わってくる。

だから大事なのはいまここで
今を変えたら人生を変えることができる。

という考え方です。



過去に対して新しい意味づけを行い
再定義することによって
たとえが良くないことがあったとしても
エネルギーをプラスに変えることができます。



昔こんなつらいことがあった
それが原因で
いまはこんなことが起こっている

という捉え方(フロイト的)から

昔こんなつらいことがあった
しかしそのおかげで
こんなことを学び、今に活かせている

という捉え方(アドラー的)へ。



ちなみにフロイトとアドラーの
どちらが正しいというわけではなく

「人生がより良くなるには」
という視点で考えると
過去の出来事を学びに変えて今がある
と思った方が自分のエネルギーが上がるので
私はそちらを採用しています。


---


どうでしょうか?

こんなに考えなくても
誰かと交わしたたったひと言で
視界がひらける人もいるでしょう。

自分の輝きに気づくまでの
道のりはたくさんあると
思います。

なので
ひとつのストーリーとして
捉えて頂けたらと思います。



まとめると、今回の記事で
一番伝えたかったことは

私たちはどうやっても
自分のフィルターを通して
ものごとを捉えているのだから

自分の人生にいい影響を与えない
「安易な」理由づけではなく

エネルギーがアップするような
自分にとって意味のある
理由づけ(再定義)をとことんやっても
面白いんじゃないか、ということでした。




有難うございました!


こんにちは。

前回の記事で書いた
「安易に意味づけをしない」
ということについて
もう少し補足したいと思います。


起こった出来事に対して
意味づけをするとは

たとえば
ラッキーなことがあったときに
日ごろの行いがいいからだな!
今日の占いで1位だったもんな!

と思ったり

いやなことがあったときに
自分はやっぱりダメな人間だから
こういう目に合うんだ。。。

と思ったりすることです。



事実に対して
自分のフィルターを通して
解釈を加えるとも言えます。

色眼鏡を通して
ものごとを見るとも言えます。


---

そもそも
現実を認識するときに
自分なりのフィルターをかけることは
私たちの脳に備わっている機能です。


騒がしいお店の中にいても
目の前の人の声に意識を集中すれば
周りの雑音はそこまで気にならなくなりますよね。

これをボイスレコーダーにとって
あとから聞き直そうと思っても
一人の声だけを聞き分けることは難しいはずです。



すべての情報を
同じようには扱っていたら
大変なことになってしまうので

自分が「重要だ」と思ったものには
フォーカスして
そうでないものはぼんやりと認識する
ということを私たちは自然にやっています。



なので
色眼鏡を通して
ものごとをみること

それ自体は
いいことでも悪いことでも
ありません。

私たち全員がやっている
脳のしくみの話です。



ただ、注意すべきポイントは
そういう認識の仕方をしているのを
忘れてしまって

自分が重要だと思い
意識を向けたものが
万人に共通する「現実」だと
勘違いしてしまうことです。



自分が重要だと思ったことは
クローズアップされますが

そうでない部分は
なかったことにされて
盲点になっている可能性があるからです。



さきほどの例でいえば
お店の中には
自分と相手以外にもたくさんの人がいて
それぞれが話しているのに

自分の中では
相手とそのお店に行って
こういう話を聞いた
という記憶しか残らなくなります。

それが自分にとっての「現実」
として捉えられます。


しかし
実際にはスピンオフ映画のように
そこにいた人たち全員の
ストーリーがあるはずです。



---

私たちが意識を向けることは
自分が「重要だ」と思ったことですが

では「重要だ」と判断する基準は
どこにあるのでしょうか?


たくさんの人がいる中で
ある人だけを重要だと判断した
のはなぜでしょうか?



それは
潜在意識の中にある
膨大な記憶情報をもとにしています。



今まで経験してきたことをもとに

あの人は知り合いだと認識し
あの食べ物は美味しいと思い

無視されるのは
自分が嫌われているからだと感じ

苦労しないと幸せにはなれない
と信じています。



もちろんこれは
例として
挙げただけですが
潜在意識の情報をもとに
それぞれの思い込みや信念を持っています。

誰ひとりとして同じ
人生を歩んできてはいないように

潜在意識の中にある情報も
十人十色です。



しかも潜在意識の情報量は
生まれてから今まで
24時間、365日、常に

五感で感じた全ての情報
プラス
体験した言語情報の全て

が大きな箱の中に
無秩序に入っているような
イメージです。
それくらい膨大です。



それら全てを自覚することは
ほぼ不可能ですよね。

その中からわずかに
意識にのぼったものを
「顕在意識」と呼びますが
それは全体の5%弱と言われています。


私たちはその意識できる部分だけが
自分なのだと思ってしまいがちですが

本当は残りの95%も含めて
自分です。

生まれてから今まで
誰かであった瞬間はなく
ずっと自分でしたよね。


---

私たちの人生は
毎瞬毎瞬の
選択の連続によって
作られています。

人生の重要な決定なら
顕在意識をフル稼働させて
「決めた」という実感が
あるかもしれませんが

毎日の無数の選択は
潜在意識の情報をもとに
無自覚に行っていることがほとんどです。



何に意識を向け
起こった出来事に対して
どう感じ、どう考え、どんな行動をとるのか。

潜在意識の中に貯えられた
過去の記憶の情報をもとに
あらゆることを選択しています。



実際には決めたことを
自覚できていないので
人生が予期せぬもののように
感じてしまうかもしれません。

あるいは
自覚できたことだけが
自分が選んだことだと思うと

すべて自分の力でやったと
思ってしまったり
誰かのせいでこうなったと
思ってしまったり。



しかし
本当はすべての出来事は
起こるべくして起きていると
言えます。



とはいえ
生まれたときから今までの
どの選択がどう絡み合って
現在の状況を作り出したのかまでは

意識にのぼってきていないので
私たちが説明することはできません。

すると、それを偶然や運命だと
と思っていまします。

あるいは、勝手に意味づけをして
自分が意識できる範囲内で
○○だからこうなったに違いない!
と考えたりします。


---

今回の記事の冒頭で書いた
「安易に意味づけをしない」
というのはこういうわけです。

可能性のひとつかもしれないけれど
それが理由かはわかりません。

生まれてから今まで
意識せず、あるいは意識して行った
非常に多くの選択が複雑に絡み合って
その出来事が起きたからです。

なにかひとつでも違う選択がされていたら
同じことは起こらなかったはずです。



ちなみに、今回は詳しく触れませんが
潜在意識の下にはさらに
「無意識」とか「集合意識」と
呼ばれる領域もあると言われています。

私たちは
その影響を受けることもあります。

満員電車のダルおもい空気が
充満する中にいたら
自分にもなんだかダルさが感染するようなものです。

そのダルさの理由は
自分の体調不良ではなく
頂きもののダルさです。



もやは何がなんだか・・・
ややこしいと感じるかもしれませんが

○○だからこうなったに違いない!
というのは多くの場合
「後付けの理由」
にすぎないということです。


---


以前、何回か続けて書いていた
「自分を観察する」という話は
この勝手な理由づけをやめて
頭の中を整理するのにも役立ちます。


なんだかわからないけど
イライラした

理由がわからないけど
こういういうことが起きた

という状況だと
脳は気持ちが悪いので
放っておくと勝手にストーリーを作って
理由づけをしていまいます。



なので
ああ、いまイライラしているなー
という部分で一時停止させ

自動的に理由づけまで
してしまわないように
自分を客観視し、観察します。



すると余裕が生まれ
自分や相手を責めたり
理由を勝手に決めつけたりすることが減り
建設的にものごとを考えていけるようになります。

あるいは、ワンクッションはさむことで
自分の思い込みのクセが見えるので

それが自分の人生に
プラスに働くものでなければ
お別れすることもできます。




長くなってしまいましたが
「安易に理由づけしない」という話を
脳のしくみと潜在意識の観点から
補足してみました。

少し分かりにくかったかもしれませんが
今日も有難うございました!

こんにちは。

前回の記事に
多くのコメントやリアクションを頂き
有難うございます。

コメントを拝見していると
記事の中から

それぞれのピンとくる部分を
拾い上げて下さっているのが
うかがえました。



前回の記事で、私は

皆さんのブログを拝見して
学んだことや感じたこと
を書こう!

とざっくりとテーマを決めて
パソコンに向かいました。



小論文の試験ではないので
大きなテーマは意識しつつも

がちがちに固めずに
浮かんできた言葉や話を
書くようにしています。



そのため
前置きで書き始めたことが
ひとつ分の記事になってしまったり

書いていくうちに
ふくらませていったら
最初に掲げたテーマとは
変わっていることもよくあります。


---

前回の記事でも
書き始めたら小さなテーマが
いくつか出てきました。

他人との比較ではなく
自分の人生を生きること

死と生についての
意識の持ち方

お役目に沿って起こる課題を
乗り越えていくこと

八百万の神の精神
それぞれの良さを発揮すること


など
それぞれが1つの記事に
なる話でしたが

あまりこだわらず
言葉が流れてくるのにまかせて
書いたのであちこちに話題が飛びました。



人によって
読んでいてピンとくる部分は
異なると思います。

ふーん、なるほどねと
とくに印象に残らないこともあるでしょう。

もし、心が動いたり
はっと気づいたりすることが
あったとしたら

それはきっといま
自分の中にあるテーマのひとつです。


---

私もブログを拝見していると
よくあることなのですが

ぼんやりと気になっていること
に関する発信ばかりを
連続して目にすることがあります。


もっとはっきりと気になっていれば
検索して情報収集をしますが
そこまでは意識に上ってきていない
テーマです。

また、街を歩いていて
特に意味はないのに
目につくものがあったり

誰かと話していると図らずも
同じようなテーマだったり。




それらを単なる「偶然」と
みなすこともできますが
私は1つのサインだと捉えています。

なんてことなく
流れてしまうときもあるのに
なぜいま気になったのか。

いま、このタイミングで
自分に必要なメッセージだから
目につくのだと思います。

シンクロニシティに気づけたのだと
言えるでしょう。


---

このような
直感(インスピレーション)
が降ってくるのは
エネルギーが高いときです。

何かに気づくことできるのは
感覚が研ぎ澄まされ
思考もクリアになって
抽象度も高くなっているから。

潜在意識の声をキャッチしやすい
状態にいるはずです。



そういうものに出会ったら
放っておくのではなく
メモを取ったり
少し意識を向けたりして
フォーカスしてみるのがおすすめです。

すぐにその重要性が分からなくても
いつかきっとつながるはずです。



ただ、ポイントは
安易に意味づけをしないことです。

なんだか矛盾しているように
聞こえるかもしれませんが・・

そのメッセージやサインを
受け取ったということは
おそらく何かいま自分にとって
必要だったからだと思います。



しかし
どんなふうに自分に必要か
まではすぐに分からない場合も
多いです。

そんなときに
「きっと○○だから」
こういうメッセージを受け取ったんだ

という部分まで
勝手に意味づけすると
視野が狭くなってしまう可能性があります。



なので
種が落ちているのに気づいたら
拾ってとりあえず土に植えて
水やりをしておくようなイメージです。

そこからどんなふうに
育っていくかはわかりません。

すぐに大きく育って
自分の人生の最重要テーマに
なる場合もあれば

もっと何年も先になって
はじめて実ができて
その意味に気づくこともあります。



スティーブジョブズの
「点と点を結ぶ」の話とも
似ています。

今の段階で
将来を見据えて点と点を
繋ぐことはできません。

後で振り返って
繋ぐことしかできない。

でも、どんなことが起きても
将来必ず点と点が結び付くのだと
信じることに意味があるはずです。


---


これは「原因」と「結果」
という観点から考えることも
できます。

原因と結果は
1:1に対応するものではなく
実際には複雑に絡み合っています。

「○○だからこうなった」
と思っても
それはあくまでひとつの可能性に
すぎません。

勝手に自分に都合よく
意味づけをしてしまうと
それ以外の情報が盲点になって
しまいます。



逆に、原因と結果の法則で
言われるように

得たい結果があったら
そうなる原因を作り出せばいい

という話も実際にやろうと思ったら
あらゆる原因を網羅する必要があります。



どれかがうまくはまって
「こうしたら、こうなる」という
暫定的な法則を見つけても

誰にでも
どんなときにでも
当てはまる

普遍的なものとは言えません。



状況もやる人も違うのだから
すべて同じ条件で
比較検討することは
実際にはほぼ不可能です。

ビジネス本や自己啓発本では
断定的に表現されるので

こうやったらうまくいくのか!
と思いがちですが
あくまでひとつのケースです。



となると
原因と結果の法則は
「結果論」の話と言うこともできますよね。

確かに
ある結果が起きたということは
なにか原因があったはず
なのだとは思います。

しかし
複雑に絡み合った原因の
全てを解明して再現することは
難しい。

あとから振り返ったとき
自分なりに点と点を
つないだものです。


---

人事を尽くして天命を待つ
という言葉もありますが

考えられうる範囲で
自分のできるあらゆることをやって
あとはおまかせするしかありません。

自分の普段の生活
考え方、ものごとに向かう姿勢
すべてが影響しているはずです。



すると、行きつく先は
特別なときだけ頑張るのではなく

日常でエネルギーが高い状態を
いつもキープできて
それが自然な状態になっていくこと

そして、今やれることに
最善を尽くすこと。


それがあらゆることがうまくいく
秘訣なのかなと思います。



長くなってしまいましたが
自分に必要なメッセージの
受け取り方とその注意点などを
書いてみました。


有難うございました!

こんにちは!
いつもお越し頂き有難うございます。

いいねやコメントを残してくださり
読んだよと教えてくださる方。

毎回とはいきませんが
可能な限りブログにお邪魔して
ひとつひとつ拝読したい気持ちでいます。



直接お会いすることはできなくても
画面の向こうにどんな方がいて
日々何を想っているのか。

お仕事のブログを書かれている方も
もちろんいらっしゃいますが
そういう方にも必ず
お仕事以外の顔があります。

それを想像してみたり。



いろいろな方の文章を読むと
それぞれのお人柄が垣間見れる気がします。

淡々と書いてあるようでも

言葉のチョイスや
顔文字、絵文字の使い方
全体のトーン
ブログのデザインなど

細部にこそ
その人らしさがあらわれます。


---

拝読していると
つい笑っちゃったり
なんだかほっこりしたり
私も頑張ろう!と背筋が伸びたり

壁に直面し、もがきながらも
進もうとしてる姿に勇気をもらったり。

ブログには書かなくても
いろいろなことで迷ったり
悩んだりしている人もきっといるはずです。



それぞれの立場や状況は違えど
またどんなことがあっても
誰もが日々、一生懸命
生きているんだなと感じます。

ときには投げやりになったり
生きるだけで精一杯のときも
あるでしょう。



私は他の人と比べてしまうと
たぶん順風満帆に生きてきましたが

それでも、無力感を感じたり
失敗してへこんだり
至らない部分や未熟さは
日々たくさん感じます。

波乱万丈な人生の方からみたら
甘っちょろいのかもしれませんが

それでもそれぞれの目の前に現れた
「自分の課題」を1つひとつ
クリアしていくことが必要なのだと
強く思います。



職業に貴賤はなく
使命に優劣もありません。

自分の持ち場で
目の前の課題に全力を注ぐことが
自分自身の魂を成長させることに
繋がります。


---

以前、「死」について考えましたが
いま命があって、生きているということは
生きなければならない理由があるからだと
私は思います。

可能性としては今日死んでも
全然おかしくないのに
まだ生きている。

それは命ある肉体で
果たすべきお役目が残っているから。

まだやりなさい、生きなさいと
いうことなんだろうなと思っています。



死を迎えたということは
いまの自分としての意識と肉体での
果たすべきお役目が終わって
お疲れ様ということなのかなと。

あるいは、ここで亡くなることで
残った人になにかお役目を繋げる
ことなのかもしれません。

あくまで個人的な考え方ですが。。。



だから、生きているというより
生かされているという感覚でいます。

生きている意味がわからなくても
大変なことが起きたとしても

それは自分が経験し、味わい
乗り越えるべき課題だったから
起きているのだと思っています。




何度も同じようなパターンの
出来事が起きることがありますよね。

それがお役目にそった
乗り越えなければならないことだから
何度も起きているはずです。

人との別れの辛さは
あたたかさを学ぶために。

自分のできることの偏りは
助けてもらったり
協力してもらったりすることの
素晴らしさと有り難さを知るために。



日本古来の八百万の神の精神を
意識しています。

わたしも神
あなたも神
みーんな神

それぞれの良さを組み合わせて
それぞれの持ち場で輝けば
全体はきっともっとよくなっていく。


だから
私は自分のやるべきことを
全力でやります。

苦手なことはバトンタッチ。
わからないことは教えてください。
力を貸してください。



そう考えると
私は生きやすくなりますし
とても力がわきます。

そんな気持ちで
いろいろな趣味、お仕事、考えをもつ
みなさんのブログを拝読しています。

全てにコメントまでは残せませんが
これからもどうぞよろしくお願いします。



有難うございました!


自分の心の状態がいま
どんな感じかわかりますか?

自分の内側の状態は
外側に写し出されます。



忙しくなったり
気持ちが乱れたりすると
部屋も散らかりやすいですよね。

環境に写し出されるので
自分の身の回りを見れば分かります。



緊張していると
筋肉がぎゅっとこわばりますよね。

ストレスがたまると
お肌の状態や健康にも
よくないですよね。

怒っていると
ニコニコしているつもりでも
どこか表情にあらわれて
まわりは気づきますよね。

心の状態は
身体をみれば分かります。



いらいらしているときには
物の扱いが乱暴になります。

ガシャンガシャン音を立てながら
お皿を洗っていたり
扉をバンっと閉めたり。

心の状態は
自分の発する音を聞けば分かります。


---

実際には
もっともっと外側のあらゆるものに
写し出されています。

隠すことはできません。


私は弓道のお稽古に行くと
集中できていないときには
すぐに分かります。

同じようにやっているつもりでも
わずかな心のノイズがあるだけで
乱れが出てしまいます。


書道なども分かりやすい形で
自分の内側の状態が反映されるでしょう。



料理や文章でも同じく。

わずかなノイズであっても
野菜の切り方ひとつ
塩の一振りの違いくらい
微々たるものかもしれませんが
変化します。

文章では
全体に流れているトーンや
一文、数文字の違いだけ
かもしれませんがノイズはあらわれます。



受け手が認識できているかは
わかりませんが
敏感な人なら気づくはずです。

言葉にならない違和感という形で
受け取る人もいるでしょう。


前回の記事に書いたように
わからないことがあると
潜在意識下では勝手に
その原因探しをします。

思った以上に
潜在意識はノイズに敏感で
そこにエネルギーを使っています。


つまり
自分の心が乱れている状態で
相手に接すると、相手にまで
ノイズを増やしてしまいます。




ときどき誰かとしゃべったあと
なんだか疲れたなーと
感じることがあると思います。

それは、ちょうどそのとき
相手の心にノイズがあって
話の中でそれを無意識のうちに感じ

自分の内側にも
ノイズが発生したからかもしれません。



自分も同じように相手の心に
ノイズを発生させていることもあるでしょう。

それはある程度は
仕方のないことです。

一日のうちでも
肉体の疲れ具合が変化するように
心のノイズの大きさも
変化します。



ただ、そういう状態は

エネルギーが低いと言えます。

大切な仕事や大きな決断は
できればエネルギーが高い状態で
やりたいですし

まわりの人の心に、わざわざ
ノイズを発生させるようなことは
減らしたいと私なら思います。


---

そのためにできることが
日々を丁寧に生きることです。

内側の状態は
外側にうつしだされますが
逆もしかり。

外側を整えれば
内側も穏やかになっていきます。



つまり
誰も見ていないときでも
修行だと思って
日々を丁寧に生きることが
エネルギーを高めることに繋がります。


「丁寧」というのは必ずしも
ゆっくりやるということではなく
意識次第で誰でもできます。



物を置くとき
扉を閉めるとき
ごはんを食べるとき
お皿を洗うとき

「自分の出す音」に意識を向けて
静かにやってみようと思ったり。



人とのあいさつ
お金を払うとき
字を書くとき
メールを送るとき

いままでルーティーンとして
適当に(雑に)やっていたことを
心こめてやってみたり。

相手にストレスを与えないように
細かい部分を調整してみるだけでも
違います。

気づかれないから適当でいい
伝わればいい
という問題ではありません。



他にも
価値を提供するというと
大それたことをしなければいけないと
思う人もいるかもしれませんが

相手の目を見て話をちゃんと聞く
だけでも違います。



歩くときも
考え事をしながらぼーっと歩くのではなく
地面の感覚を感じながら
右足、左足、右足・・と一歩ずつ出す。

これと似たことは「歩行禅」といって
実際に修行でもやります。



テレビを見ながら
ご飯を食べるのではなく
五感をフルに使って目の前の
食事をちゃんと味わって頂く。


丁寧に生きるとは言い換えると

・出す「音」を意識する
・心をこめる
・「ながら」をやめる
・目の前のことに集中する

などとも言えます。

それを特別なときだけでなく
どんなときでも日常の中で
意識してやるということです。





お稽古は
先生に教えてもらっているときだけが
お稽古ではありません。

日常の中全てが意識次第で
お稽古になります。

それと同じで、日々の生活の中で
丁寧に生きるという修行をする
ようなつもりで生きる。

そういう時間が1分でも増えれば
エネルギーはきっと上がります。

よかったらお試し下さい。


有難うございました。