「世界は美しい」というタイトルに込めた想い | 世界は美しい
今日は私のブログのタイトルである
『世界は美しい』について改めて

※加筆修正しています。 いつもより長いです。

なぜ、こんなちょっと怪しげで
漠然としたタイトルをつけたのか?



私は結構本気で
この世界が美しいと感じられる人が
一人でも増えたらいいな
と思っています。

とはいっても
普通に毎日生活をしている中で
「あーやっぱり世界って美しい!!」
みたいに感じられることはあまりないですよね。


でも

楽しいな
嬉しいな
面白いな
気持ちいいな
かわいいな
きれいだな
美味しいな
ほっこりしちゃうな
幸せだな
なんだかこういう毎日っていいな

と思えることなら誰しもあると思います。



「世界は美しい」という言葉には
そんなふうに

なんだかこういう毎日っていいな
こういう自分って好きだな
また明日もがんばろう

と思える瞬間をたくさん感じられる自分になれたら
という願いを込めています。



もちろん、生きていれば

つらいことも
苦しいことも
いらいらしちゃうことも
落胆することも
もうだめかもと思っちゃうことも
こんな自分やめたいって叫びたくなることも

あると思います。

そして、個人レベルを超えて、
この世界には戦争も環境問題も貧困問題も確かに存在していますし
世の中不条理だな、理不尽だな、と思えることはたくさんあります。

それでもなんでも、せめてまず
あなたの見えている世界、あなたの現実だけでも
美しいな、幸せだなと思える瞬間が
増えたらいいなと私は思っています。


---


というのも
私たちは同じ世界に生きているようで
実際には一人ひとり見ている世界が違うからです。



同じ夕日を見ても
温かさを感じる人もいれば
物悲しく感じる人もいるでしょう。

その違いを生み出しているのが
私たちがもつフィルターです。

自覚しているもの、そうでないもの
さまざまありますが
誰もが色眼鏡をかけています。

夕日はただ自然現象として
目の前にあらわれただけです。
でも、そこにどんな意味づけをするかを
決めているのは私たちです。

一人ひとり今までの人生で培われた
思い込みがあります。
常識、先入観とも言えるでしょう。
それらは全てあなたが世界を見るときに
使うフィルターです。

私たちは同じ客観世界にいながら
それぞれのフィルターを通した異なる主観世界に
生きています。



ただ、フィルター自体に
正しいフィルターや間違っているフィルター
欠陥品のフィルターがあるわけではありません。

私が伝えたいのは
今自分が使っているフィルターは
永遠に固定されるものではないということ。


灼熱の太陽の下だったら
グレーがかったサングラスを使うと
都合がいいかもしれません。

でも、オレンジライトの夜のカフェでは
サングラスは必要ありません。

外そうと思えばいつでも外せます。
でも、つけているのがおしゃれだと思って
外さないこともできます。
眼鏡が好きなら、サングラスから
別の伊達眼鏡に取り換えることも
できます。



世界を見るフィルターも同じです。

心の色眼鏡も、思い込みも、先入観も
外したければ外せばいいし
取り替えるという選択肢は
いつでも目の前にあるということ。


誰かと接するとき
相手の素敵な部分を探すメガネをかけるか
相手の欠点を探すメガネをかけるか
相手の利用の仕方を探すメガネをかけるか
全部自分次第です。


同じ要領で
全ての出来事、目の前に現れる現実に対して
自分なりのフィルターを通して捉えることができます。

そうだとしたら
どこに意識を向け、何にエネルギーを集中させたいか?
この世に生を受けた、自分の命を、どう使っていきたいか?

明日も今日と同じように訪れる気がしてしまいますが
人生にも必ず終りがあります。
時間もエネルギーも無尽蔵にはありません。



そう考えたとき、
私は自分自身の心が、愛と希望で満たされ
世界の美しさに目を向けていきたいと思いました。

争うことより、手をつなぎたい。
怒鳴りつけるより、笑いあいたい。

個人としてできることは小さくても
自分の心からあふれた光が
誰かひとりにでも届きますようにと願いながら生きたい。


---

そう感じられる人でこの世界がいっぱいになったら
結果として、世の中全体も変わるかもしれません。

ただ、あえていうと
世の中を変えてやろう!救ってあげよう!
みたいな考え方とは違います。
それができると思ってしまうのは
傲慢だとさえ私は考えています。


変えられるのは
自分の見えている世界だけ。
自分を救えるのは自分だけ。
自分を幸せにできるのは自分だけ。

自分の時間の使い方も
意識を向ける場所も
エネルギーの注ぎ方も
決めているのは結局自分だからです。

相手から影響を受けたとしても
それはどこまでいっても
きっかけにすぎません。

美しい世界がどこかにあるのではなく
幸せにしてくれる人がどこかにいるのではなく
「世界は美しい」と感じる自分の心があるだけです。


理想郷を求める人には厳しく聞こえるかもしれませんが
私はそういう想いをもって、発信していきたいと思います。

共感していただける方や、
自分もそうやって生きていきたい思って頂ける方たちと
私は仲間になりたいと思うし

このブログを通じて少しでも何か感じたことがあったら、
それをあなたの周りの大切な人にも伝えてもらえたら嬉しいです。



――――――――――

私が「世界は美しい」というメッセージを伝える
もうひとつの理由。

上に述べたような願いとともに
実は、私自身が長いこと
そう思えなかったからでもあります。

それは中学生の頃から、事あるごとにずっと。

生きるってどういうことだろう
なんでこんなに苦しいんだろう
どうしたらあの子みたいにいつもキラキラ笑えるようになるんだろう
自分の人生ってこの先いったいどうなっちゃうんだろう
やっぱり誰も私のことなんて分かってくれないのかもしれない


最初は中二病のようなものから始まりましたが
その虚無感はずっと晴れませんでした。

そして私は次第に学問として、
人間について深く深く考察されてきた
哲学や宗教に興味を持つようになりました。
その影響から、大学でも思想(美学芸術学)を学びました。



こんな自分から抜け出したい
自分を癒してなんとか幸せを感じられる毎日を送りたいと

心理学を学んだり
カウンセリングを受けたり
瞑想したり
山にこもって座禅してみたり

と思いつくままに試す日々も過ごしてきました。



その結果
以前のような虚無感を覚えることは少なくなり
「まあなんとなく楽しい毎日」
を送ることができるくらいにはなりました。

しかしそれは、私の中では
マイナスからゼロになったようなもので

心が震えるような
今生きていることへの感謝にあふれるような毎日
にはほど遠かったのです。

予想していたことではあったのですが
正直悔しくて情けなくて。



それまでは
どうしたら苦しみから抜け出せるか
ということにばかり目が行き
苦しさや思考のクセの原因を探してばかりいました。

そしてこの思考のクセは
過去の親から引き継いだものだ、とか

こんな私の状況は
アダルトチルドレンというんだ、とか

今感じたイライラの根っこは
きっとあそこにあるはずだ、とか

そういうことは
なんとなく分かるような気になるけれど、
肝心の現実は変わらない。
じゃあ、どうしたらいいの?


---


私は
ゼロからプラスへのスタートへ
踏み出すことを決めました。

そして模索しながらも
本やブログを読み
いろいろな人と話す中で
生きていく方向性が少しずつ見えてきました。

ひとつずつ言語化し
整理しながら発信していきました。


次第に
ああ、こんなふうに生きていけばいいのかもしれない
と思えるようになりました。


そして
ゼロからプラスへの一歩を踏み出せるようになった
私にできることはなんだろう?

そう考えて至った結論は

自分自身の体験したことや気づいたことをシェアしていこう
そして、同じような悩みを抱えている人を
少しでも勇気づけることができたら嬉しい

ということでした。

もちろん自分の中にあるものをアウトプットしていくことで、
自分と外の世界が化学反応を起こして
さらに新たな気づきを得られたらいいなという想いもあります。


――――――――

これが「世界は美しい」
というブログを書く理由です。

私のブログの内容は「正解」なんかじゃありません。

こんなふうにしたら
「世界は美しい」って思えるかもしれないよ
という現実の見方へのひとつの提案
だと思っていただけたらいいなと思います。



長くなりましたが、最後まで読んでくださったみなさん、
ありがとうございました!!
これからもどうぞよろしくお願いします。


mayumi