& Wikipedia「アルフレッド・シスレー」より抜粋
アルフレッド・シスレー
(Alfred Sisley, 1839年10月30日 – 1899年1月29日)は、
フランス生まれのイギリス人の画家。900点近い油彩作品
のうち大部分は、パリ周辺の風景を題材にした
穏やかな風景画で、人物、室内画、静物と
いった他のジャンルは全て合わせてもおそらく
20点に満たない。
他の印象派の画家の多くが、後に印象派の技法を離れたなかで、
シスレーは終始一貫、印象派画法を保ち続け もっとも典型
的な印象派の画家 といえる。
画家としてのルーツは風景画によく見られる田舎の暮らしではなく、
むしろ都会的なブルジョワジー文化にある。
シスレーには兄と二人の姉がいたこと以外に幼少期の生活を伝える
資料は残っていない。
18歳の頃には3~4年間商業の勉強の為にロンドンに移っている。
しかし、シスレーは勉学そっちのけで展覧会などを訪れ、特に
コンスタブルとターナーに熱中していた。
1860年の秋に、 シャルル・グレールの画塾に入り本格的な
絵画の道を歩み始めた。 グレールはアトリエでの授業料などは
取らず30~40名の貧しい若者画家を教えるなど人格者としても
知られていた。
このアトリエには、1962年までに4人のずば抜けた生徒が通って
おり、一人はシスレーであるが、他にP・A・ルノワール、クロード・モネ、
フレデリック・バジール等、絵画史にその名を残す巨匠達がいた。
1866年、花屋の マリー・レクーゼクと出会い、翌年、息子ピエールが
生まれ、2年後には娘ジャンヌが生まれた。 しかし、この二人の
関係を父親のウィリアムは認めず、シスレーへの仕送りをストップ
してしまう。
1868年、シスレーの作品はサロンに出展され入選を果たすが、
あまり評価されなかった。
その後、1870年普仏戦争が勃発、ブージヴァルに住んでいたシスレーは
敵兵により家・財産を失い、翌年には父が破産、経済的必要を満たす
ために作品を売るしかなくなる。しかし作品はなかなか売れず、以後
彼は死ぬまで困窮した中で生活することになる。
1870年に入り、シスレーは画家として全盛期を迎える。進歩は目ざま
しく、数か月で前印象主義的な表現に到達した。
印象派として美術界に大きな話題を提供し、自身の表現も磨かれて
いった1870年代を過ぎ、1880年代にはパリ南東のロワン川沿いに
制作の拠点を移した。
1897年10月にパリに戻った翌年、喉頭癌を患っていることが判る。
さらに同年、妻マリーが舌癌で没し、精神的な支柱も失った。
翌年の1月29日、モレ=シュル=ロワンにて死去。59歳であった。
終生フランスの風景を描き続けた最も印象派らしい画家ですが、
"空のシスレー"と言われたように、明るくのびのびと


