としましたが、その際--どの物語もそうですが、名前の裏付けを
取るようにしています。
調べてみたところ、ポーランド人女性名では見つけることができず、
結果イタリア、もしくはドイツの女性名だということがわかりました。
何故母がポーランド人名にしなかったかを考えると、彼女はドイツに
骨を埋める覚悟でいたのではないかと・・後々、ドイツ人夫婦の養女
になるとはその時点では夢にも思っていなかったでしょうが。
また、『お兄ちゃん』に対する暴力事件について、以下の資料--
20世紀初頭におけるドイツ(プロイセン)によるポーランド人抑圧政策
を読むと、それが不条理な行いの遠因、ではないかと思わずには
いられません。
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抜粋
ポーランド人に対する抑圧的な政策は、1871年に起こった文化闘争に
その端緒をみることができる。
1900年代にはゲルマン化政策の結果、ポーランド民族運動が
おこる。
これらはプロイセン政府による学校教育・言語政策等の分野での
ゲルマン化政策に対抗するものであった。
例えば1887年の言語条例ではポーゼン州のポーランド児童に
とってポーランド語の使用は宗教の時間しか許されなくなった。
しかし1900年になると、国民学校高学年を対象に宗教の時間に
ドイツ語が導入されることとなり、これがヴレッシェン学校スト
ライキの勃発する契機となった。
これをきっかけにポーランド人抑圧政策は一層強化されることになる。
学校教育でも1902年から06年にかけてポーゼンではドイツ語による
宗教の授業は徐々に増加した。
そうした事態に対するポーランド人の民族的抵抗が、1906-07年の
ポーランドにおける学校ストライキとしてあらわれるのである。
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ドイツ人の、ポーランド人に対する差別意識のようなものが、
表面化した事件だったのではないかと思います。
ドンブロフスキのマズルカ
別名 ポーランドは未だ滅びず (ポーランド国歌)
(Jeszcze Polska nie zginęła) 1797年 ユゼフ・ヴィビツキ作詞
https://www.youtube.com/channel/UCeuIVBxllHRgXpGSPzjzkoA
この歌は第3次ポーランド分割によって共和国が全ての領土を失って
から2年後、1797年にヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ将軍が率いる
亡命ポーランド人部隊の軍歌として書かれたものだが、この抵抗歌が
第一次世界大戦後にポーランド国歌として定着した。
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