シモーネの両親に関する記事で、うっかり父親の
国籍を書くのを忘れていたことに、ブログ終盤に
なって気がつきました
多いです・・わざとではありません![]()
加えて、両親のバックグラウンドについても説明
不足の部分がありましたので、詳細を記したいと
思います。
シモーネの母は、ポーランド人であるが、経済的に
苦しい実家を離れ隣国ドイツに渡り、出稼ぎ労働者
(移民?)として働いていた。
父は、フランス兵で、ポーランドに出兵していた際
里帰りしていたシモーネの母親と出会い、恋に落ちる。
上の情報が視えた時、歴史に疎いコダイは、何故
ポーランドにフランス兵??
と・・
以下に、彼らの当時の年齢とおそらく同時期頃と思われる
時代の出来事が書かれていました。
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抜粋
1918年11月、大戦中にドイツと対立して収監されていた
ユゼフ・ピウスツキが釈放され、彼を国家元首とする
ポーランド共和国の独立が宣言された。
1919年のヴェルサイユ条約では敗北した旧ドイツ帝国から
ポズナニ・西プロイセンを獲得、また東プロイセンがドイツ領に
残された代わりに海への出口として「ポーランド回廊」を割譲
されたが、外港のグダニスク(ダンツィヒ)は国際連盟管理地域
として自由都市ダンツィヒとなり、港湾使用権を認められた。
国境が画定していなかったポーランド東部では、ピウスツキは
実力行使に訴えた。まずは東ガリツィアの西ウクライナ人民
共和国を倒し、リトアニア、ベラルーシにも軍を進めた。さらに
ヤギェウォ理念(対ロシア東ヨーロッパ連合)の構想のもとで
ポーランド・ソヴィエト戦争を引き起こし、当初はウクライナの
キエフまで至った。
その後、ソヴィエト・ロシア政権のトゥハチェフスキー率いる
赤軍が反撃に出てポーランド領のワルシャワ近郊まで逆に
攻め込まれたが、これに対して、社会主義革命の拡大を
恐れて対ソ干渉戦争を行っていた欧米、とりわけ
フランスがポーランドへ援助を行い、
ポーランド軍は赤軍を押し返すことに成功。
翌年にリガ条約で停戦した。
1923年に連合国は実効支配下の地域をポーランド領と認めた。
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また、ポーランドの当時の経済状況、出稼ぎ労働者についての
資料も以下の如くです。
抜粋
長らく異なる経済圏に遭った地域を一つの経済に統合していく
ことも容易ではなく、さらに民族的にも中核となるポーランド人
(全体の3分の2を占めた)の他に、ユダヤ、ウクライナなど多くの
少数民族を抱える多民族国家であったことなどから、国論も
なかなかまとまりにくかった。
経済不振、政情不安が続いたため、20年代半ばにはクーデター
が発生し、軍部独裁政権に変わっている。
戦前のポーランドは農民が6割を占める農業国であったが、
西欧と似た市場経済の国であった。しかしながら、20年代
後半に農産品の国際価格の暴落があり、
30年代には世界大恐慌の影響で、激しい
不況に陥り、結局、第一次世界大戦前の経済水準を
超えることはなかった。
ポーランドは、その歴史的な背景から、移民を
多く輩出する国でした。
イタリア人労働者が工業部門で多く働いていたのに対し、ポーランド人
労働者は主に農業部門に就労していました。
外国籍ポーランド人は、ロシア領やオーストリア=ハンガリー領
からやってきており、当時のドイツに存在した外国人労働者の中で
最大の集団でした。
深刻な労働力不足に悩まされたドイツ農場主
たちは、安価な季節労働者を大量に雇いました。
ドイツ農場での労働条件は劣悪ではありましたが、ポーランド
本国に比べればはるかに良好であり、そういった
点からドイツ農場主、すなわちユンカー(ドイツの地主貴族)から
「安上がりで従順」という評価を得て、農場での労働市場を席巻
していきます。
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資料を読むと、貧しさから出稼ぎに出たことも、当時のポーランドの
経済状況を知れば、個人的な都合というより、やむなく職をドイツに
求めたとも考えられます。
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