空の彼方に・追記㊴ エピソード | 前世の記憶 ~Past Life Memories~

前世の記憶 ~Past Life Memories~

占い師や精神科医に頼ることなく、自力で前世を蘇らせる方法。

他 映画、音楽、スポーツ関連記事も書いています。


Yさんから頂いたメッセージの内容は、大体前回までのような事であった。


柏原学而についての必要な情報は、ほぼメッセージに入っているので、付け加える

部分は僅かばかりだが、気になった部分、感銘を受けた学而のエピソードなどを引

用していこうと思う。

--Yさんが、自身の前世だから ではなく、学而という人物に魅力を

感じた という言葉は、実に的を射ている--

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※月日は旧暦 ( )内が新暦(グレゴリオ暦)

 年齢は柏原学而伝通り(数え年?)、( )内は満年齢を記した。


①文久2年(1862年)

足立藤三郎(寛、のち陸軍軍医監)の懐旧談。 

(学而(考章)が、適塾の塾頭をしていた頃の話)

「私が緒方塾に参った時は、柏原学而といふ人と今一人で、代る代る

塾長しておりまして、緒方先生が塾に出て講義をするやうなことは殆ど

見受けませでした。」

洪庵が江戸へ向かって大阪をたったのが、文久2年8月(9月)で、このころ学而

住み慣れた大阪を後に江戸へ出立した。ときに学而28才(27才)。


②元治元年(1864年)4月(5月) 

一橋家を介して慶喜の侍医に召抱えられる。30才(29才)

このころ慶喜は 『禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)』 の任について

いたため京都にあった。

※禁裏御守衛総督

 日本の江戸時代末期に幕府の了解のもと、朝廷によって禁裏(京都御所)を

警護する為に設置された役職のこと。一橋慶喜(徳川慶喜)が任命された。

同年6月5日(7月8日) 池田屋騒動勃発 

直ちに現場へ駆けつけ、外科の手腕を発揮、傷病療治にあたる。




③同年7月19日(8月20日) 禁門の変(蛤御門の変)

学而は慶喜に従い、禁裏に入って従軍したが、その時の出で立ちは白の後鉢巻

陣羽織、若党に六角柄の大薙刀を持たせ、白扇をかざして進軍した。

その太兵肥満の武者ぶりはさぞ人目をひいたことであろうと・・・

やがて凱旋のさい、突如隊列に騒動が起こった。敵襲に遭遇したと誤認したのが

原因であったらしい。この突然の騒ぎで慶喜の近侍達が、隊列を乱して慶喜の側

を離れた時、学而はただ一人、慶喜の馬前に立ちふさがって太刀を

抜きはらい万一の場合にそなえた。



④同年11月(12月) 天狗党の乱(武田耕雲斎の変)

同年3月より始まり、12月加賀藩に投降して武装解除、争乱は鎮圧

される。

学而はこの乱に、京都から越前へ従軍、近江と越前の国境にある疋田駅(敦賀市)

1か月以上も駐屯していたが、乱も収まったので再び京都に帰った。


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①に関して、塾頭をしていたという27才当時、透視で得た情報、講師でもあり生徒でも

あったという件と一致しているように思う。(二人で代わる代わる塾長を務めていた)


②と③に関しては、どちらも、非常に危険な状況にも拘らず、我が身を顧みることなく

身を挺して治療に当たったり、慶喜を護ろうとする、その姿勢に感銘を受けた。

(殺されかかっていた半次郎の前に、我が身を投げ出して救おうとした姿勢と一致する)


④この従軍は、越前 ということから、興味が湧く。1か月以上も駐屯していた間、半次郎

を訪ねようとはしなかっただろうか?故郷ではあっても、結婚後は敦賀には居なかっただ

ろうから、結局ニアミスすらなかったのだろう。ただ、故郷の話は聞いていたに違いないから

全く無関心ではなかったような気はする。

もちろん、学而がYさんの前世であるという前提での意見です。