空の彼方に・追記㊲ 柏原学而伝より(1) | 前世の記憶 ~Past Life Memories~

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占い師や精神科医に頼ることなく、自力で前世を蘇らせる方法。

他 映画、音楽、スポーツ関連記事も書いています。


依頼された奥さまが、『柏原学而伝』 のコピーを送って下さった。

コダイも読ませていただいた上で、奥さまの検証に付け加えることがあればそれも

足して追記を載せる予定だったが、読んだ結果、奥さまの検証メッセージには最も

知りたい部分が集約されており、追加も変更の必要もほとんど無いと判断--その

まま引用させていただくことにした。

加えて、コダイの感想または返信~裏付けの裏付け?も、随時載せていく--


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2014年6月29日 続き

「柏原孝章」が気になり、ネットで調べましたが写真や肖像画もなく、

幕末の(他の)偉人に比べてあまりに情報が少ない

だが少ない情報で得た「柏原孝章」に魅力を感じ、もっと知りたくなりました。
(前世という可能性よりも、その人物に興味が沸いたのであります。)

Wikipediaに乗っていた「柏原学而伝」というものを読みたいと思いましたが、

市の図書館にはそれが書かれている本がなく、 国会図書館にはあったので、

複写サービスというものを利用して、「柏原学而伝」の書かれている箇所のコピ

ーを手に入れ読んでみました。


もちろん、半次郎との出来事が書かれているわけもありませんが、そこに書か

れていた柏原学而(孝章)の性格が、コダイさんが視た「孝章」に

なるような印象 を受けたので半信半疑ではありますが興味深く感じました。


まず 柏原学而は19歳のとき適塾に入門 足かけ9年間もいたようです。
適塾時代、9年間も適塾にいたことに、


父は当時高松藩医で名声が高く、生活は比較的裕福であり、三男坊

の気安さで、しかも適塾の住み心地がよかったため、なかなか帰国する気にならな

かったんだろう ―――

と記されています。


後、慶喜の侍医となります。
慶喜はその後、徳川家を相続、将軍となります。
学而は、慶喜と共に行動し、医家としての腕前も発揮しています。
大政奉還があり、戊辰戦争が勃発、慶喜は江戸→水戸→駿府(静岡)と謹慎の地を

移し、学而も同行。
駿府が静岡と改称され、慶喜は謹慎を解かれたが引き続き静岡に居住しました。
学而も静岡にとどまり、慶喜の住んでいる屋敷の前に医院を開業。
医術開業試験委員長もつとめ、各地から教えを乞うものが押しかけ、子弟の養成に

は非常に熱心だったそうです。


この資料に、学而の性格がよく書かれている部分がありますので載せます。

―――――――――
金銭に無頓着で一家の財務はすべて妻に一任し、もっぱら学問、診療や子弟の

養成や趣味に生きた。また自ら孤高を持し、所言をまげることなく、百万人と

いえども、我行かんの気概をもった人でもあったようだ。

しかし反面気がやさしく、身分の貴賤で診療に差別をつけたりするこ

とは絶対になく、いやしくも富貴におもねることがなかった。
また酒豪をもって鳴り、徳川家臣中の大関と称せられたが、酔って興にのぼれば

慶喜の前でも放歌高吟し、はては裸になって踊ったという。
―――――――――

静岡の開業医時代の事ですが、治療費なども一切気にしておらず、支払え

ばよし、支払わなければそれでもよしといったやり方だったそうです。

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ここまで読んで、仰天してしまった・・・

赤字で拡大した部分は、奥さまが仰るように 正に、視えた考章の人柄のまま

だったからだ。

 

--この人物は、私が偶然名を借りた『考章』 その人ではないだろうか・・・

半信半疑どころか確信に近いものを持ち始めた--

さらに、裕福だったこと、酒豪だったこと(毎晩仲間を引き連れて、居酒屋?に

通っていた)が視えたものと一致していたことにも驚いたが、最も驚いたことは、透視の

根幹を左右しかねない基本情報--学而(考章)の生年月日についてだった。


いくら性格、人柄が似通っていたとしても、この安政の大地震を手掛かりとする時代と

全くかけ離れた時代の人だとすれば、見当違いも甚だしい話になってくる。

しかし・・


 でプロフィールを載せた時に気づいた方がおられたかもしれないが--


天保6年4月9日(旧暦) = 1835年5月6日 生まれ

嘉永7年閏7月23日(旧暦) = 1854年9月15日 適塾入門(学而19歳)

                         ↑ちなみに大安


半次郎が安政東海地震(1854年)に遭遇したのが、19歳の時。

『空の彼方に』の中で、考章の側からの目線で、半次郎とは同い年ぐらいだと

書いているが、それも透視の情報でそのように教えられていたからだったが、

1854 から 19 を引けば 1835 となり

 

半次郎と考章は、全く同い年だった事になる・・・!


福沢諭吉の適塾入門台帳(写し)ダウン

(諭吉も2人と同じ 1835年生まれである。)




※付記

適塾に359番目の門下生として入門した 手塚良庵 

漫画家 手塚治虫の曾祖父 である。

アニメ 『陽だまりの樹』 は 適塾が舞台になっている。


また、福沢諭吉著 『福翁自伝』 には、適塾での生活が描かれている。