ご主人の前世の人物を『半次郎』としたのは、間違いなく
人斬り半次郎 から拝借した。
対して、奥さまの前世も仮の名を決めねばならない--その時点で、この人物が
『適塾』で学んで(同時に講師として教えて)いた人物であろうことは間違いないと
思っていたが、名前を借りようにも 『空の彼方に㉛ 』 にあるように、歴代塾頭
の名前しか判っていない。
それも、福沢諭吉や久坂玄瑞、大村益次郎等、超有名人ばかりで--もし
前世の人物が彼らの中に居るとすれば逆に使うべきだろうが、そんな気にはならず、
逆に あまり知られてない、聞いた覚えのない名前を使いたいと思った。
著名な名前以外の私自身が知らない名前も数名あったが、その中から
13代柏原考章(かしわばら たかあき)
の名を選んだのは、その『考章』という、どちらかといえば 現代風の名 が、視え
た前世の人物に一番しっくりくる--イメージに合う気がしたからだった。
依頼者の奥さまがメッセージに書かれていたように、その時点では本当に、ただ名前
を借りただけだった・・・
そして、借りついで?に、この人物の情報をネットで探したが、この時は、不思議なこ
とに、Wikipedia すら発見できなかった。その後、奥さまからのメッセージで改めて
検索したら簡単に出てきたので、狐につままれた気分だった・・
結局、写真ひとつ、肖像画ひとつネットから検索できず、もしその人物が、私の視た
前世の人物の相貌と似通っていたら、ブログに載せようと思っていた試みは挫折。
仕方なく、『空の彼方に⑬ 』 で、やはり同じ幕末の、とある医者の画像を借りた--
が、実はこの人物は、考章の画像が見つからず、半ばヤケ?になって載せたにすぎず、
実際に視えていた前世の男性のイメージとは似ても似つかぬものだった。
--今回ブログ上で、前世の人物(考章)の人相や体型について、具体的に書かなかっ
たが、それには理由があった。これについては、また後程書こうと思う・・
その頃、依頼者の奥さまは、いち早く『柏原考章(学而)』に目を付け?、ご自身で検証を
始めていた。
その詳細な検証~典拠『柏原学而(考章)伝』 を紹介させていただく前に、
Wikipedia に書かれている彼のプロフィール、略歴等を載せておきたいと思う。
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柏原 孝章(かしわばら たかあき)
天保6年4月9日(1835年5月6日) - 明治43年(1910年)11月5日)
は、江戸時代後期から明治期の蘭方医、啓蒙家、洋学者。
江戸幕府15代将軍徳川慶喜の侍医。もともとは学介と名のっていた。
号は学而(がくじ)。字は子成。
経歴
1835年(天保6年) - 讃岐国潟元村に高松藩奥医師の柏原兼好・光子
の三男として誕生。
1844年(弘化元年) - 小豆島の医師中桐文炳の養子となる。
1853年(嘉永6年)、1854年(安政元年)頃 - 妻の死とともに養家から
柏原家に復籍。
1854年(安政元年) - 閏7月23日 (旧暦)、緒方洪庵の適塾に入塾。
1862年(文久2年) - 適塾の塾頭。8月、江戸にて石川桜所に入門。
1864年(元治元年) - 4月、徳川慶喜の侍医となる。
1869年(明治2年) - 2月21日 (旧暦)、駿府病院の二等御医師となる。
1871年(明治4年) - 自宅に医院を開業する。
1910年(明治43年) - 11月5日、死去。