検証の最後は、帰途につく半次郎が取った交通手段についてーー
㉙の地図を見られた方はすでにお気づきかと思うが、帰路は船で
琵琶湖
の湖上ルートを辿ったと思われる。
最初そのビジョンーー船に乗っている半次郎の姿ーーを視た時、何故か
海ではないだろう
という感覚だけはあった。理由は不明だが、けれど、川でもない・・?
その段階で 湖 である、というような発想もなく、また、船を利用する意味も判らず、
不思議で仕方がなかった。
半次郎の故郷が 福井 だと判り始め、地図を眺めて初めて、ああ!琵琶湖だったのか・・と。
琵琶湖は古来より、京阪神への水源であると同時に重要な交通の
要衝でした。日本海で取れた海産物を始め、北国諸藩からのたくさ
んの物資を敦賀で陸揚げし、深坂峠を越えて塩津港へ、再び船積
みして湖上を大津・堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運び
ました。こうした北から南への荷物を「下り荷」といいます。具体的
には「ニシン・海藻類・生魚・馬の鞍木」などです。またこのルートを
逆に運ぶ(大坂・京都から若狭方面へ)のを「上り荷」といい「綿・飴
・醤油・酒樽・着物・反物・煙草」などが多く運ばれていました。船の
所有数や問屋などの数から考えても、主要48浦(小さい港も含める
と100以上)の中で大津、塩津は飛びぬけて多く、琵琶湖水運の中
心は南北の物資輸送であったと考えられます。
物資輸送のための船に、特別に乗せてもらったのだろうか?
そんな事が可能だったのかどうかは判らないが、金額に糸目を付ける必要のない
考章だからこそ、できたのかもしれない・・
そこで利用された船は丸子船
~ 『水の道 空の道』 より
丸子船は、江戸時代から戦前まで琵琶湖の湖上輸送の主役でした。
江戸時代中頃には1000艘をこえる丸子船が湖上を行き来していた
という記録が残っています。主に物資を運びましたが、人を運んだり、
ときには漁船としてもつかわれました。丸子船はおよそ7石から400石
以上のものまで知られ、100石以上のものを大丸子(おおまるこ)、小さ
いものを小丸子(こまるこ)と呼びました。
丸子船
