上方で、人斬りを始める半次郎。
そして、彼の前にひとりの青年が現れるーー奥さまの前世と思われるその青年は、地方の
裕福な武士の家庭に生まれ、上方で暮らしつつ西洋の学問(蘭学)を学んでいた・・
⑭で、大阪の 『適塾』 の画像を載せた。
その際、依頼者の奥さまから、適塾の事を知らなかった とのメッセージを頂いたが、何の
ことはないーー私自身、この塾の存在を知らないまま、画像検索していたのだ。
つまり、考章が 『西洋の学問』 を学びに上方までやって来た との情報と、実際に視たビ
ジョンの2つの情報を元にーーその時は、いったい何をキーワードとして捜したのか、今と
なっては知りようもないのだがーーとにかく、視えたビジョンに近い画像を探していて、偶然
チョイスしたものだった。
㉒で、不思議な力に導かれて辿り着いた情報 と書いたが、これが、後にリアルに迫っ
て来ることになろうとは、その時は知る由もなかった。
その後、考章のように西洋の学問を学びに上方へやって来た地方の志士達が実際居たの
かどうかを検証したくて調べ始め、その結果、つまり別ルートから入っていった結果、再び
適塾に巡り会ってしまったのだ・・・!
そしてそこで、適塾の真の凄さを知ると同時に、正に考章が学んでいたのはここではないか、
層々たる顔ぶれに混じって、考章も居たのではないかーーとの思いが過ぎる・・
以下に書かかれているように、塾生~後に塾頭にまでなる人物が実際居たことを鑑みれば、
考章が塾生であり同時に講師でもあったという透視は、考章の辿った道と被るように思えて
ならない・・
※前世の男性 『考章』 の名は、下記、歴代塾頭13代柏原考章から拝借させていた だいた。
より
適塾をめぐる人々
洪庵は優れた蘭学者・医学者であったばかりでなく、同時にみごとな教育者で
した。適塾には入門者が日本全土から集まりその数は千人にも達したそう
です。特に佐賀・筑前・越前・土佐・宇和島・足守の各藩などは、藩主の命に
よって入門者を送ってくるほどに、適塾の評価は高いものでした。
これら適塾門下生には明治維新に向け激動の時代に身を捧げていった大村
益次郎や橋本左内があり、また慶応義塾を創立し、教育の著作活動を通じて
明治の日本人の意識の近代化に多大の貢献をなした福沢諭吉もいました。
内務省の初代衛生局長として日本の衛生行政を確立していった長与専斎も
適塾出身です。他にも戊辰戦争で敗れた大鳥圭介や高松凌雲、日本赤十字
社の祖・佐野常民を輩出しています。
適塾の歴代塾頭
初代 緒方洪庵 2代 奥山静寂 3代 久坂玄機(久坂玄瑞の実兄)
4代 大村益次郎 5代 飯田柔平 6代 伊藤慎蔵 7代 渡辺卯三郎
8代 栗原唯一 9代 松下元芳 10代 福澤諭吉 11代 長與專齋
12代 山口良哉 13代 柏原孝章
緒方洪庵
大村益次郎



