自分のブログを書いた後、誤字脱字がないか、何度か読み返す。
前回書いたブログに関しては、その空襲と思われる場面を読む度、散歩中に
感じた恐怖が蘇る。
『死』にまつわる前世を殆ど視ないが、過去2つ視ていて、そのうちのひとつが
不思議と同じ例会の仲間の前世で、『ガレオン船』 のタイトルで、4年ほど
前に書いている。それも、今回のように戦に巻き込まれて亡くなるという前世で、
(時代も国も違うが)その凄まじい死の瞬間が視え、心底恐ろしい思いを味わった・・・
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予科練に志願し、特攻を経験することはなかったけれど、空襲によって若い命を
絶たれた前世の少年ーー
母が悲しみに見舞われたのは、その最後を知ってのこと。
友だちが福岡で、心の中で発した言葉ーー
『ただいま帰りました』
は、故郷を離れたまま、二度と戻ることが叶わなかった少年の、母に向けて、
時空を越えて発せられた、万感の思いのこもった言葉だったろうか・・・
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ところで、この 『空襲』 に関して、海軍の基地が空襲されるというような、実際
そのような事実があったのだろうかーー
調べてみると、太平洋戦争末期、いくつか空襲された基地はあったが、本州にある
基地では
土浦海軍航空隊(茨城県稲敷郡阿見村)
が、空襲に遭っていたという記事を見つけた。
土浦航空隊
土浦海軍航空隊について書かれたウィキペディアには
昭和20年6月10日 空襲全焼。練習生182名戦死
とある。
また、
予科練平和記念館
と題したHPには、空襲を体験した関係者について書かれたブログが載っていた。
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2011年6月10日付けブログ
今から66年前の6月10日、記念館があるあたりは大きな空襲を受けました。
土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校一帯)を中心に、午前8時
ごろからB-29の大編隊による4度の空襲を受け、ちょうど日曜日だったので、土浦
海軍航空隊にいた予科練生たちと、その家族やまわりの一般の人たちもたくさん
巻き込まれてしまいました。
今日は、その中のお一人である戸張園子さんがご来館くださいました。
所蔵資料展が今週末までだということでお越しくださったそうです。
戸張さんは、当館で、ボランティアでお話をしてくださっている元予科練生の戸張
礼記さんの奥様です。
航空隊の近くに住んでいた戸張園子さんは、66年前の今朝、空襲の第一波で
落とされた爆弾の破片で深い傷を負ってしまいました。
土浦海軍航空隊の中にある医務科に運ばれ、寝かせられたのは廊下の水道
の下でした。
一緒にいた姉に、「ここは危ないからおねえちゃん逃げて!」と言ったそうです。
空襲がおさまって、姉に背負われて病院に行ったのよ、と教えてくださいました。
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前世の少年が、ここに居たかどうかまではわからない。
が、予科練生のいた航空隊が空襲されたという事実は、確かに存在していた・・
