故郷へ⑨ 海軍飛行予科練習生 | 前世の記憶 ~Past Life Memories~

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予科練とは・・・


海軍飛行予科練習生(かいぐんひこうよかれんしゅうせい)のことで、大日本帝国海軍

における航空兵養成制度の一つ。志願制。

予科練”(よかれん)と略称で呼ばれることが多い。


歴史

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戦前

1929年(昭和4年)12月、海軍省令により予科練習生の制度が設けられた。

「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小学校卒業者

で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戦技教育が

行われた。全国からの志願者5807名から79名が合格し、1930年(昭和5年)6月、第一期生

として横須賀海軍航空隊へ入隊した(後の乙飛)。

1936年(昭和11年)12月、「予科練習生」から「飛行予科練習生」へと改称。1937年(昭和12

年)、更なる搭乗員育成の為、旧制中学校4学年1学期修了以上(昭和18年12期生より3学年

修了程度と引き下げられた)の学力を有し年齢は 満15歳以上20歳未満 の志願者か

甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設けた。従来の練習生は乙種飛行予科練習生(乙飛)

と改められた。


当初は、横須賀海軍航空隊の追浜基地がその教育に用いられたが、手狭なため、1939年

(昭和14年)3月、予科練の教育を霞ヶ浦海軍航空隊に移した。翌年同基地内に新設された

土浦海軍航空隊 に担当が変更された。

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戦中

戦前に予科練を卒業した練習生は、太平洋戦争勃発と共に、下士官として航空機搭乗員の

中核を占めた。故に戦死率も非常に高く、期によっては約90%が戦死するという結果になって

いる。また昭和19年に入ると特攻の搭乗員の中核としても、多くが命を落としている。

昭和19年夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れ

ないものが多かった。中には、航空機搭乗員になる事を夢見て入隊したものの、人間魚雷回

天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいた。

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教育

教育は、普通学(12科目)・軍事学(9科目)・体育(10種目)など多岐にわたり、当初の履修

期間は2年11か月だった。その後、履修期間は徐々に短くなり、終戦直前には1年8か月で、

海軍二等飛行兵から海軍飛行兵長に昇格し終了した(乙飛、1942年以降の階級)。甲飛の

履修期間も当初の1年2か月から終戦前には6か月に短縮された。修了後は練習航空隊で

飛練教育を受け、その後実戦部隊に配備された。

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そして、気になる 白い詰襟 である軍服---


『予科練 軍服』


で検索してみれば、正しく 海軍で着用されていたものと同じ軍服 を、予科練生も

着用していたことが判った・・・


第二種軍装(夏服)の予科練生                   

ダウン 階級: 一等飛行兵(下士官)  襟章: (甲種)飛行予科練習生襟章