セバストポリ包囲戦(1854年9月27日– 1855年9月11日)
セヴァストポリ パノラマビュー
1854年9月、連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリ
に向けて進軍した。ロシア軍は黒海艦隊を沈めて英仏艦隊の湾内突入を防ぎ、
街を要塞化して連合軍を待ち受けた。
セヴァストポリ包囲戦は、厳しい冬が包囲軍を悩ませた。
フランス軍 冬の塹壕
戦闘は激烈で死傷者は増大、負傷者はイスタンブルに移送され、ナイチンゲ
ールらの手当てを受けた。包囲戦は約1年間続き、両軍の戦死者は20万を
数える。
仏・英キャンプ
以下ウィキペディアより転載 ~セバストポリ包囲戦詳細
主力のイギリス・フランス軍ともに現地の事情に疎く、クリミア半島に部隊を移
動させた直後から現地の民兵やコサックから昼夜を問わず奇襲を受け、フラン
ス軍にいたっては黒海特有の変わりやすい天候について調べていなかったた
め、停泊中の艦隊が嵐に巻き込まれ、戦う前からその大半を失っていた(この
後、フランスでは気象に関する研究が盛んになる)。
ロシア軍は指揮の面で不備が多く、アルマの戦いでは地の利があるにもかか
わらず、実戦経験豊富なフランス外人部隊と戦闘犬を擁するスコットランド連隊
の前に敗れてセバストポリへの進軍を許してしまった。
1855年8月 フランス軍、ロシア軍を撃退
一方、同盟軍は情報の重要性に気を配らなかったことから、フランス語の堪能
なロシア人士官が化けた偽指揮官たちによる攪乱工作により、バラクラヴァの
戦いやインカーマンの戦いでは辛うじてロシア軍を退けるも被害が著しく、セバ
ストポリを前にして立ち往生する羽目になった。
ロシア軍は英仏艦隊から直接セバストポリを砲撃されないよう湾内に黒海艦隊
を自沈させ、陸上でも防塁を設けて街全体を要塞化したため、同盟軍は塹壕
を掘って包囲戦を展開する以外に手がなく、イギリス軍は化学兵器(一説では
亜硫酸ガスではないかといわれている)まで使用したが、予想外の長期化によ
り戦死者よりも病死者の方が上回り、戦争を主導したイギリス国内でも厭戦ム
ードが漂っていた。
最終的に、サルデーニャ王国がピエモンテに駐屯する精鋭15000人を派遣して
同盟軍に与したことにより、街は3日に及ぶ総攻撃の末にナヒーモフもコルニー
ロフも戦死し、1854年9月28日から始まったセヴァストポリの戦い-セバストポリ
攻囲戦は1855年9月11日に陥落を見て決着した。
セバストポリ陥落
以上がクリミア戦争開戦から終戦までの経緯である。
※因みに、太線で示した
バラクラヴァの戦い は、映画のタイトルにも使われた
『The Thin Red Line』
でも知られている。
The Thin Red Line ~シン・レッド・ライン
とは、1815年のワーテルローの戦いで、フランス近衛兵の突撃をモン・サン・ジャンの高地で
撃退した、イギリス近衛兵の 横隊防御を讃えた言葉 である。
イギリス兵の上着が赤いことから名づけられた。
バラクラヴァの戦いでは、ロシア軍の攻撃によりトルコ軍が潰走、バラクラヴァ港へ向かう道に
残されたのは
クライド男爵コリン・キャンベル麾下の第93歩兵連隊
(93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)
550人と少数のトルコ歩兵及びイギリス海兵隊のみ。
しかし、第93連隊は 2列横隊 でロシア軍の騎兵による突撃を防いだ。
当時の歩兵の制服の色から、シン・レッド・ライン(The Thin Red Line)として知られる。
第93歩兵連隊のシン・レッド・ライン
また、セバストポリ要塞の戦いに、将校として従軍していた
レフ・トルストイ ~ 著書に『戦争と平和』 『アンナ・カレーニナ』など。
(1828年9月9日 - 1910年11月20日)
は、従軍した体験を元に 小説「セヴァストポリ物語」 を執筆して国家的栄誉を得て
いる。
「レフ・トルストイの肖像」 イワン・クラムスコイ(1837~1887)ロシア