クリミア戦争について
以下 『趣味の歴史』 よりコピペさせていただきました。
クリミア戦争(1853年3月28日 - 1856年3月30日)は、衰退したトルコを食い
物にするロシアと、ロシア の進出を嫌うイギリスやフランスとの戦いである。
発端はトルコ領エルサレムの聖地管理権問題で、カソリック(フランス)とギリシ
ア正教(ロシア)の宗教問題が絡んでいた。元々管理権はフランスが持ってい
たが、フランス革命の混乱期にロシアに渡り、その後、ナポレオン3世がトルコ
に圧力をかけて取り戻した。
これに対しロシアは、トルコ領内のギリシア正教徒の保護を名目に、ロシア軍
のトルコ領内進駐を迫る。ロシアの真意は、地中海への出口確保(南下政策)
だった。イギリスやフランスはトルコを支援、トルコはロシアの要求を拒否した。
1853年7月、ロシア軍は突然トルコ領モルドバ、ワラキアに進駐し、トルコ軍と
対峙した。これに呼応したギリシャの義勇兵や反トルコ勢力が立ち上がり、マ
ケドニアやブルガリア方面からトルコ軍を挟撃した。
苦境にたったトルコ軍を英仏艦隊が支援。フランス海軍は、ギリシャ向けの武
器輸送船をテッサロニキで撃沈、イギリスもアテネの港ピレウスを封鎖した。
その結果、反トルコ組織は各地で鎮圧され、トルコ軍はロシア軍をドナウ以北
にまで押し戻し、戦線は膠着した。
同じ頃、コーカサス方面でもロシア軍が南下してきた。要塞都市カルスをめぐ
る戦いが始まり、カルスへの補給基地であるシノープがロシアの攻撃目標にな
った。
Kars ~ カルス城砦
1853年11月、クリミア半島のセバストポリを出港したロシア黒海艦隊は、黒海
南岸の港シノープ(Sinop)を急襲し、停泊中のトルコ艦隊を全滅させた。また、
艦砲射撃で街を焼き払い、多くの市民を犠牲にした。各国はこの攻撃をシノー
BattleOfSinop ~ シノープ海戦
1854年3月、イギリスとフランスはトルコと同盟を結び、ロシアに宣戦布告した。
モルドバ、ワラキアのロシア軍はオーストリアやプロシアの抗議により撤退し
た。連合軍はブルガリアから北上してオデッサを攻める作戦だったが、オースト
リア軍がワラキアに進駐したため、攻撃目標はロシア艦隊の基地セバストポリ
(Sevastpol)となった。
次回へ・・


