昨日は、八千代<ひきこもり>と共に生きる会の「スイロク」という毎月最後(今月だけ第3)の水曜日午後6時から行われる気軽なサロン的集まりに行ってきました。


 少し遅れていったのですが、私を入れて5人の男性陣で、いろんな話をしてきました。


 ある男性が、「えっ、社会のせいなんですか。僕は自分が悪いと思っています」と言っていました。


 自分の責任がゼロとは言わないけど、私自身が生まれてから約50年間の社会の状況を見ていると、社会に大きな問題があることが見えてきました。


 昔は、ものがない時代でしたから、何をやってもほとんどのことがプラスされていきました。

 しかし、今はものがあり余っています。パソコンだってできて当たり前。そんな時代に生きていると、できないことがマイナスとして捉えられてしまいます。ある一定ラインを超えられない人は、マイナスと査定されてしまいます。こんな時代、決して良いわけがないですね。生きているだけで、プラスなのに。


 それに、子どもの頃の過ごし方に、学校しか選択肢がないというのは、あまりにも貧弱な社会だと思います。子どもたちの中には、すばらしい個性を持っているけど、団体行動にはどうしてもついていかれない子もいます。そんな子を無理矢理、団体と同じ規定の枠にはめようとするから、子どもはとまどい、反発したり、あきらめたりしてしまいます。


 他にも、社会は矛盾だらけだなと感じることが非常に多いんですね。


 そんなことも話せて良かったかなと思います。

 今、昔買った河合隼雄さんの「人の心はどこまでわかるか」という本を読み返しています。


 その本の80ページに、「普通の人になることが幸せか」というタイトルで、いろいろ書かれています。


 平凡な普通の人になることが、果たして幸せなのかどうか、このことは、常に頭の片隅に置いておく必要があると思っています。


 人と違うことをしているそこに、その人の個性があって、それこそがその人らしさなのではないかと思うことも多々あります。



 ただ、この本にも書かれていますが、普通と普通でないことの違いを善悪で判断しないことが大切だと思っています。


 私も、以前から人に話していたのですが、良いか悪いかなんて、神様にしか決めることはできず、人間にはできないことだと思っています。人がするすべてのことには、良い点も良くない点も必ずあります。それらをしっかりと深く見つめれば見つめるほど、善悪で判断することはできないと感じるようになります。


 私たち人間にできることは、好きかきらいかを決めることだけだと思います。


 ただ、人間社会の中では、ルールを決めないと、めちゃくちゃになるので、ルールを作って、それを守っているか守らないかで、判定をすることが必要になっていますが、そのルールも時代によって違っていますね。日本でも、数十年前は、人を殺せば勲章がもらえた時代があったのですから。



 私のもう一つのブログ「アルプの日記」 でも、この本に関することを書いています。良かったら、そちらもご覧ください。

 今日は、放課後子ども教室のスタッフとして半日、子どもたちと遊んできました。


 子どもたちが来る前、スタッフのみなさんと打ち合わせをしていたのですが、前日、ある子が、別な子から「あなたは味方だよね」と言われて、「違うよ仲間だよ」というような言葉を返したそうです。


 スタッフの人たちは、「そんな感性を持っているんだね」と言いつつも、「味方」と「仲間」はどう違うんだろうと言っていたので、子どもの代わりに説明しました。


 味方という言葉は、その影に敵がいるから使う言葉ですね。「あなたは敵ではなくて、味方だよね」ということになります。しかし、仲間は、敵の存在など関係なく、ただ純粋に同じ仲間だということですね。


 だから、「私は無条件にあなたと友達だよ」という意味がありますね。その子が、どこまで思ってこんなことを言ったかどうかは分かりませんが、この差は重要なことです。



 そのとき、私はスタッフの人に話したことなのですが、人に「連れて行ってあげる」という言い方は、人を上下関係で見た言い方なので、言われた人は「私は連れて行ってもらわなければならない低いレベルの人間なんだ」と思う場合があります。多くの人は何も感じないと思いますが、感受性の強い人は、しっかりと感じるでしょうね。


 だから、私は、障害を持つ人に「山に連れて行ってあげるよ」とは言わないのです。「一緒に(山に)行こうね」と言うのです。これなら対等な関係ですよね。



 引きこもる人たちは、多くが感受性が強く、ちょっとしたことにも敏感です。ですから、この程度の気遣いは当たり前のこことしてできないと支援は難しいですね。



 私は、常識を疑う人間なので、もう一つだけ事例を紹介します。


 良く、大人は子どもに対して「素直になりなさい」と言いますね。「素直」って何でしょうか?


 人の言うことを聞くのも確かに素直なのですが、素直には、もう一つ大切な素直さがあります。


 それは、「自分の心に対して正直になる」と言うことです。人の言葉に反抗しないことを素直と行った場合、心の中で舌を出して、「反論すると面倒なので、取りあえずここはおとなしくしていればよいや」と思っている子を、大人は簡単にだまされて素直と思ってしまうのですね。


 しかし、自分の心に正直になるには、周囲の人がみんな自分と違うことを言っていても、それに流されず「私はこれが正しいと思う」と言えなければならないのです。自分の心に正直になるためには、勇気がいるのです。


 だから、素直な心というのは、別な言い方をすれば、「勇気を持つこと」ができてはじめてなれることでもあるのです。



 常識だと決めつけたとき、人は考えなくなってしまいます。常識だと決めつけたとき、すべては終わってしまいます。

 常識だと決めつけられたとき、「この人には何を言っても無駄だ」とあきらめてしまうのです。それが人間ですね。

 師友塾という不登校の子どもたちのための学校を経営する大越塾長さんがまとめた「不登校が教えてくれた母ごころ」と言う本を読み始めています。


 もっともだと思うことが多々あるのですが、あるお母さんが「母ごころ」という言葉を聞いたときに、親は2人いるのになぜ母親なのかと思ったそうです。そのお母さんは、塾長の話を聴いて納得できたのでよいのですが、「母ごころ」=「母親が持つべきもの」ではないのですね。


 「母ごころ」は、「四季の歌」でも歌われているように、雪をとかす大地のような広い心なのです。それは、お父さんが持っても良いし、お母さんが持っても良いのです。ただ、どちらかというと子どもはお母さんに求めているでしょうね。


 子どもを育てるには、母性と父性が必要なことは良く知られていると思いますが、この二つは、同じ時期に平行して子どもに与えるものではないと思うのです。


 まずは、母性で子どもを暖かく包み、どんなことがあっても守られている、自分はそのままで良いのだということを無意識の中に感じられることが大切なのですね。


 だから、少なくても、3歳くらいまでは母性が最も重要ですし、母性だけでも十分なのではないかと思います。お母さんが何か病に倒れたら、お父さんがその母性を発揮することです。


 そして、小学生くらいになり、さらに最も重要な思春期になったら、父性も非常に重要になってきます。


 子どもたちは、ただ自分勝手に生きるのではなく、生きることや人との関わりなどに、さまざまな意味を探し求めるようになります。そのときに、社会の常識に流されるのではなく、信念を持って生きることが大切なのだとしっかり伝えられるのは、やはり父性なのではないでしょうか?


 肝っ玉母さんと昔言われたように、父性もまた、必ずしも父親が発揮する必要はありません。母性と父性の両方を持った人が、最も貴重な人です。まあ、父親と母親でそれぞれを役割分担できれば一番良いのかも知れませんが、父親も母親も、父性と母性とは何か、常に学び続ける気持ちを持って、両親も両方を身につけるように、常に学び、努力を続けることが大切なのだと思います。


 我が子が不登校になったら、このように人間にとって最も大切なことを考える機会をもらえるのですから、我が子に感謝ですし、我が子が、社会の矛盾を感じ、それに対して反抗姿勢を示したことには、やはり「子どもが学校に行かなくなったら赤飯をたきなさい!」なのですね。

 以前、典型的な共依存の母子に会ったことがあります。


 はっきりした年齢は分からないのですが、母親が60代後半かと思うので、息子は40前後ではないかと思います。


 ある人との会話で、お母さんが言った言葉が、「息子のことは私が一番良く知っていますから」というものだったそうです。お母さんはこれが普通のことだと思っていると思うのですが、息子が成人し、さらに中年にさしかかっているのに、母親が何でも知っているというのは、異常なことなのですが、その母子はそれに気づいていないんですね。私の親など、18歳の時に、遠く離れたところで暮らしていますから、私のことなど、何も分からなくなっているのですが、まあ一般的には、それが普通でしょうね。


 息子の仕事場に、母親が来るというのは、それだけでも多くの息子は止めてくれと思うのに、息子からそうして欲しいと頼み、母親もそうしたいと望む。さまざまなことを母親に聞き、判断を仰ぐ。


 典型的な母子密着で、共依存の関係ですね。そういう状態なので、息子はしっかりと働くことができず、ちょっとした失敗ですぐに止めてしまい、親元で一緒に暮らす生活をする。


 引きこもる人たちの間にも、親子の共依存がある場合が多いように思います。


 そんな状態が長く続けば続くほど、その状態が当たり前のことになってしまって、脱することが難しくなります。この状態から脱するためには、理解ある第三者が関わることが大切なことだと思います。