怒りが出てきたことに、祝杯を
怒りを素直に出せる人は、どれくらいいるだろう。怒りが出てきたとき。怒ってしまった自分を責めてしまうことはないだろうか。私自身、怒るのが嫌だった。怒っている自分も嫌だった。「またやってしまった」と自己嫌悪になる。怒ってはいけない。物心がついた頃には、そんな思い込みを抱えていた。あるとき、瞑想のトレーニングで少し変わったワークをした。大音量の音楽の中で、大声で不満をぶちまけたり、野獣みたいに叫んでみたり。感情を思いっきり表現するワークだった。嬉々として雄たけびを上げる男性たち。その横で、「そんなことしたくない」「ちょっと無理」「みっともない」そう言って戸惑う女性たちがたくさんいた。その光景を見ながら、ああ、私だけじゃなかったんだ、と少しほっとした。女性は怒りを嫌う。穏やかでいたい。優しくありたい。感じよくしていたい。そんな女性像に、激しい怒りは似合わない。だから、むき出しの怒りは、あってはいけないもののように感じるのだろう。できれば自分の中にも見たくないし、人にも見せたくない。だから我慢する。いい母親でいようとする。いい妻でいようとする。いい部下でいようとする。いい上司でいようとする。いい人でいようとする。そして怒りを我慢する。実は、このワークのとき、私は別の意味で驚いた。皆が嫌がる雄たけびワークを、興味本位でやってみたら、少し気持ちが良かったのだ。「大嫌いなのよー!」「やめてよー!」「嫌なのよー!」叫んでいたら、なんだか胸のつかえが取れていくような感覚があった。ふと見渡すと、泣いている人もいた。そのとき初めて、怒りは悪いものばかりではないのかもしれないと思った。もちろん、その後すぐに上手に怒れるようになったわけではない。我慢して、我慢して、最後に爆発するタイプだったから。暴言を吐いてしまった。感情的になってしまった。そんな経験はないだろうか。私はある。しかも、やってはいけない場所でやらかした。職場の会議で、上司に向かっての暴言。今思い出しても、なかなかの黒歴史である。それまで見ないふりをしてきた怒りが、一気にあふれ出したのだと思う。怒りは、「それは嫌だ」「それは違う」「大切に扱われたい」そんな思いが強くなった感情なのかもしれない。だから見ないふりをしている限り、決してなくならない。気づかれるまで、何度でも顔を出してくる。自分を守るために必要なものだから。怒りが出てきたとき。それは、自分の大切なものを知るチャンスなのかもしれない。だから最近は、怒りが出てきた自分を、少しだけ責めなくなった。いつか、怒りが出てきたことに、祝杯をあげられる自分でありたいと思う。では、またね。おすすめ記事「自分を感じる」とはどういうことなのか。を書いた記事です。『自分を感じると、何がいいの?』こんにちはー、アルマです※前回の記事「瞑想は生産性のためじゃない」では、“効率”や“成果”を目的にしない瞑想の本当の価値について書きました。今回は、その続きと…ameblo.jp