その「影」は、あまりにも唐突に、足音もなく僕たちの完璧な日常に忍び込んできた。
初夏を思わせる、日差しの強い五月の午後だった。
いつものように庭でバラの手入れをしていた夏実が、突然「あっ……」と短い声を漏らし、その場にしゃがみ込んだ。
「夏実? どうした、貧血か?」
慌てて駆け寄り、彼女の背中を支える。しかし、夏実の顔は紙のように青白く、額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいた。彼女は胸のあたりを強く押さえ、苦しそうに荒い息を吐いている。
「健人、さん……ごめん、ちょっと……息が……」
そのまま意識を失いかけた彼女を抱き抱え、僕は無我夢中で救急車を呼んだ。
サイレンの音が遠のく意識の中で響く中、僕は彼女の冷たくなっていく手を必死に握りしめ、「大丈夫だ、俺がいるぞ」と何度も祈るように声をかけ続けた。
搬送先の総合病院。
精密検査を終え、医師から呼ばれた小さなカンファレンスルームは、かつて不妊治療で絶望を味わったあの診察室と同じ、無機質で冷たい空気に包まれていた。
「結論から申し上げます。奥様は……すい臓がんです。発見が遅れ、すでに肝臓や他の臓器にも多数の転移が見られます」
医師の口から紡がれた言葉は、僕の脳の処理能力を完全に超えていた。
「……え? がん……? 転移?」
「はい。非常に進行が早く、手術で取り除くことは不可能な状態です。抗がん剤で進行を遅らせる治療が中心となりますが……もって半年、早ければ三ヶ月の命かと」
頭を、巨大なハンマーで殴られたような衝撃だった。
目の前が真っ暗になり、耳の奥でキーンという耳鳴りが鳴り響く。隣に座る夏実を見ると、彼女は静かに目を伏せ、膝の上で両手をきつく握りしめていた。
「……先生、嘘ですよね? 妻は、さっきまで元気に庭で花の手入れをしていたんですよ? まだ若いんです。何かの間違いじゃないんですか!?」
僕は椅子から立ち上がり、医師にすがりつくように叫んだ。しかし、医師の表情は悲痛なまでに冷静だった。
「健人さん……っ、やめて、先生を困らせないで……」
夏実が、震える手で僕の袖を引いた。
その瞳には、すでに自分の運命を悟ってしまったかのような、静かで、底知れない絶望の涙が浮かんでいた。
「なんで……なんで君が、こんな目に遭わなきゃいけないんだ……!」
その夜、病室のベッドで点滴に繋がれた夏実の横で、僕は声を殺して泣いた。
あんなに苦労して、涙を流して、ようやく手に入れた穏やかな余生だったのに。神様はどうして、ここまで僕たちから大切なものを奪おうとするのか。
「……泣かないで、健人さん」
夏実の冷たく細い手が、僕の涙で濡れた頬をそっと撫でた。
「私ね、不思議と怖くないの。だって、私の人生には、いつも健人さんがいてくれたから。……最高の人生だったって、胸を張って言えるもん」
彼女の無理に作った笑顔が、かえって僕の胸をナイフでえぐるように痛めつけた。
残された時間は、長くても半年。
僕たちの穏やかだった日常は音を立てて崩れ去り、逃げ場のない「死」という絶望的な影が、二人を完全に覆い尽くしたのだった。