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5分読み切りなので楽しんで下さい!

私は前歯。正確に言えば、佐藤家のお父さんの口の最前線にそびえ立つ、シャベル型をした自慢の上顎右側中切歯(じょうがくみぎがわちゅうせつし)だ。左隣の相棒とは、乳歯のあの日からずっと、文字通り「門歯(もんし)」として佐藤家の食生活の門番を務めてきた。


​私の前歯生(?)において、最高に誇らしく楽しい瞬間。それは何と言っても、美味しい食べ物を「噛み切る」その瞬間だ。


お父さんが、ミディアムレアに焼き上がったジューシーなステーキや、新鮮なレタスがシャキシャキと音を立てるサンドイッチを口に運んでくる。


「よし、俺たちの出番だ!」


左の相棒と息を合わせ、下顎の前歯チームと挟み込むようにして、食べ物をスパッと一刀両断にする。あの、食べ物が繊維から引きちぎられる瞬間の鮮烈な手応え! 奥歯の連中が「ゴリゴリ」と地味にすり潰す前に、食べ物の第一印象を決めるのは私たちなのだ。さらに、お父さんが満面の笑みを浮かべた時、真っ白に輝く私が「ニカッ」と世界に向けて露出するあの主役感。これぞ口内のスターの特権である。


​しかし、最前線に立つ門番には、誰にも言えない悲哀と絶望的な恐怖が常に付きまとっている。


​私が最も嫌悪し、屈辱を感じる瞬間。それは、お父さんがラーメンや蕎麦をすする時だ。


ツルツルと勢いよく飛び込んでくる麺。お父さんは何をトチ狂ったのか、その麺を途中で、私と下の歯を使って「プツッ」と噛み切ってしまうのである。


やめてくれ! 私たちの神聖な切れ味を、そんな柔らかい小麦粉の紐のために使わないでくれ! 麺は奥歯で味わうか、一本丸ごとすするべきだ! しかも、噛み切られた拍子にスープの汁が私の顔面にピシャッと跳ね返り、熱々の油膜で視界が真っ暗になる。あの時の「やってらんねえよ」という虚しさは、奥歯の奴らには絶対に理解できないだろう。


​さらに恐ろしいのは、年に数回やってくる「青のり」や「黒胡麻」のゲリラ豪雨だ。


お父さんがお好み焼きを食べた後、一辺の青のりが私のど真ん中にペタリと張り付く。それだけならまだいい。最悪なのは、お父さんがそのことに全く気づかず、会社で重要なプレゼンを始めてしまうことだ。


私が「お父さん! 早く舌で私を舐めてくれ! 今みんなが君の口元を見てザワついてるぞ!」と神経を通じて心電図のように叫んでも、お父さんには届かない。私の白いドレスの上に青のりが鎮座したまま、商談が静かに破談へと向かっていくあの生き地獄は、思い出すだけでエナメル質が薄くなりそうだ。


​さて、そんな栄光と恥じらいを繰り返していた、あるうららかな春の日のこと。


その日、佐藤家は大きな池のある有名な日本庭園を訪れていた。お父さんは上機嫌で、池の橋の上から身を乗り出し、丸々と太った色とりどりの錦鯉たちに麩(ふ)を投げていた。


​「ハッ……ハッ……ハックション!!」


​突然、お父さんの特大のくしゃみが炸裂した。


あまりの衝撃に、私を支えていた歯茎の土台(牙槽骨)が激しく揺れた。いや、揺れただけではない。その時、お父さんは驚いて口を閉じようとしたため、私のすぐ下にあった「橋の硬い木製の欄干」に、私の頭頂部がものすごい勢いでガツンと激突してしまったのだ!


パキィッ!!!


​(あ、終わった。私の美しいエナメル質が……)


​凄まじい衝撃とともに、私の体は真っ二つに破断した。私は自分の根元(歯根)を残したまま、頭の部分だけが宙を舞い、そのまま鯉がバシャバシャと群がる池の水面へと落下していった。


(さらば、お父さん。短いスター人生だった……)


​私が水底のヘドロへ沈むのを覚悟した、その瞬間。


水面から、一際巨大な「黄金の錦鯉」が、麩と間違えて大きく口を開け、ダイナミックに飛び出してきた。


パクッ。


​えっ?


暗い水底に沈むはずだった私は、なんとその黄金の鯉の口の中へと吸い込まれた。しかも、私のギザギザに割れた断面が、その鯉の上顎にある硬い骨の突起に、奇跡的な角度で「カチッ」と完璧にロックされてしまったのだ。


​……それから数ヶ月。


現在、私は人間の口の中にはいない。


この日本庭園の池の主、「スマイル錦鯉(通称:ニカちゃん)」の立派な顎の最前線で、第二の人生(魚生)を謳歌している。


​どうやら、お父さんの歯のカルシウム成分と、鯉の顎の組織が、池の特殊な水質によって奇跡の石灰化現象を起こし、完全に一体化してしまったらしい。


私の真っ白な人間の前歯(半分だけど)を一本だけ輝かせながら、水面から顔を出して「ニカッ」と笑う黄金の鯉の姿は、瞬く間にSNSで大バズりした。「あの鯉と目が合うと金運が上がる」という宇宙規模の都市伝説まで生まれ、今や庭園の一番人気スポットだ。お父さんも、差し歯になった口元をモゴモゴさせながら、毎週のように私に会いに来ては、高級な鯉の餌をこれでもかと投げ込んでくれる。


​ステーキを噛み切ることはできなくなったが、最高級のペレット餌を池の最前線でガッチリと受け止める毎日も、悪くないと思っている。


​ただ一つだけ問題があるとするなら。


池の鯉たちの世界では、私を装着したニカちゃんが「人類のテクノロジーをその身に宿した、宇宙からの使者」として崇め奉られてしまい、毎晩、夜の静まり返った池の底で、何百匹もの鯉たちが私を囲むように円陣を組み、不気味な口の開閉(パクパク)を繰り返す怪しげな宗教儀式を執り行うため、ずっと見つめられている私としては、一晩中気味が悪くて全く眠れないことである。