カープ最強伝説のデジャブ 

 

 2017年のペナントレースが始まった頃のこと。カープ最強伝説とうたわれた1984年ペナントレース開幕時の記憶がデジャブのようによみがえってきた。

 

 この既視感(デジャブ)は、これから1984年日本シリーズを描写しようとする筆者個人の希望的観測からくるものではないのか自問自答を繰り返した。ただ一つ言えるのは(あくまでも主観だが)セリーグをとりまく状況が84年当時と酷似していたということだ。

 

 まず、セリーグの監督の面々を思い浮かべた。最長でも3年と、こぞって監督歴が浅く、優勝経験豊富な「海千山千」といった雰囲気の監督は見当たらない。優勝経験監督はヤクルトの真中監督(2015)とカープの緒方監督(2016)といった状況だ。

 

 84年当時のセリーグ監督の顔ぶれはどうだったか。読売ジャイアンツは、監督歴3年で2度の優勝と抜群の指導力を発揮した藤田元司氏が勇退し「既定路線」である王貞治監督の就任1年目。

 

 一時的に首位に立つなど、この年のカープ最大のライバルとなった中日の監督は、ロッテ監督を三年間(いずれもBクラス)務めた山内一弘氏。

 

 一方、阪神の安藤統男氏、ヤクルトの武上四郎氏、大洋の関根潤三氏なども監督として3~5年のキャリアはあったがBクラスが指定席の状態で、この年まで監督歴9年、その間リーグ優勝3度、日本一に2度輝いた古葉竹識は経験・実績において群をぬいていた。

 

 そのためかどうか、監督を補佐するコーチは「影の薄い」存在となってしまった。この時期のカープ黄金期は古葉のワンマン体制だったのだろうか。

 

 筆者にとって、カープ・コーチ陣の代表的存在は藤井弘打撃コーチ(コーチ歴1972~88)だった。なんといってもわが故郷の町(安芸郡府中町)に在住していたのが大きい(全くの私事だが)。

 

「藤井コーチが旧中(以前、そこに中学があった)グラウンドでノックしよるらしいで!!」

 

 という怪(?)情報に、仲間をこぞってチャリンコで現地にむかった記憶がある。しかし、それはカープ帽を被ったただのオッサンがやたらと張り切ってノックしていただけのガセネタであった。昭和の広島にはこうした、その町その町の「カープあるある」が存在したのだ。

 

 ただ、この藤井コーチ。お世辞にも「名参謀」というタイプではない。通算177本塁打など豪快なバッティングでファンを魅了し、ついたアダ名が「ゴジさん」。一方、守備はあまり上等とはいえず、一塁側にフライがあがるや観客は固唾を飲む。見事にキャッチすれば拍手、取り損なっても拍手という「愛されキャラ」だった。同じポジションで時々ぎこちない動きをするアライさんのような存在と思っていただきたい。

 

 古葉監督をとりまく首脳陣にそんなキャラ立ちした人物がいたため、怜悧な作戦の一つひとつは古葉監督一個の頭脳から湧き出ているものとばかり考えていた。70年代後半から80年代前半にかけてセリーグで最もシンキングベースボールを前面に打ち出していたのはカープである。

 

 古葉が南海時代、守備コーチとして野村克也監督の薫陶を受けた話は以前ふれたが、同じくヘッドコーチとして「野村組」のシンキングベースボールに参画したドン・ブレイザーも78年の1年間だけであったがカープの一軍守備兼ヘッドコーチを務めている。

 

 78年のシーズンは打撃陣が一挙に開眼し、通算205本塁打の日本新記録(当時)を樹立。この驚異的な記録の背後には「投手のクセや配球を読む」といったブレイザーの「イズム」が色濃く反映しているように思われる。

 

 そして野村組から、さらに強力な頭脳が古葉カープに加わる。柴田猛バッテリーコーチ(1977~80)である。1944年、和歌山市出身で県立向陽高校に進学。高校野球トップレベルの激戦区において、夏の甲子園県予選ベスト4の主力選手。卒業後の63年に南海ホークスにテスト生として入団。当初は外野手だったが2年目に捕手に転向。当時、全盛期だった野村克也の控え捕手となった。ひっそりと咲く月見草のそのまた影の存在である。

 

味方に嫌われてこそ本物の仕事師

 

 そして野村がプレイングマネージャーに就任した70年から、この男は「影」としての本領を発揮し始める。野村監督の下、ブロックサインの解読を担当。球界関係者からは「サイン盗みの男」と恐れられることになる。誰よりも人物評の手厳しい野村が一目置く存在になったということが彼のすごさを語る上での最高の裏書だ。

 

 南海ホークス野村政権末期の76年にカープへ金銭トレード。選手として目立った働きはなかったが、77年からコーチ兼任。若手投手のアドバイザーとして活躍。これが黄金期カープの大きな財産になった。

 

 78年引退後、79・80年にバッテリーコーチとして2年連続優勝・日本一に貢献。ここでも「サイン盗みの男」の面目躍如。相手投手のフォームを撮影し癖を見つけて攻略…、だけならまだしも読唇術を駆使して相手ベンチの会話から作戦企図を読み取り、敵の裏をかく。

 

 心理面を巧みに突く作戦も研究し、特に外国人選手に対しては生まれ育った環境、文化、信条を分析して戦略を組み立てていった。これには南海時代、味方であるブレイザーら外国人スタッフも閉口。バーニー・シュルツ投手コーチと衝突するなどの武勇伝もあった。こうした役割を担う男は、味方にまで嫌われてこそ本物である。野村が一目置くのもうなずけよう。あくまで憶測でしかなかったマニエル攻略、彼が暗躍したにちがいない。

 

竹識(たけし)の影に猛(たけし)

 

 筆者は、中國新聞に折り込まれてくるカープ手帳(選手名鑑)を毎年心待ちにしていた。最新号を手にするやページを留めるステープラーの金具が緩むほどに何度も読み返していた。今は昔のことだが、当時は選手の住所が番地まで詳細に記載されていた。筆者はそれで広島市の区名や町名を覚えたほどだ。それでも「柴田猛」の名前はこの稿に着手するまで全く記憶になかった。

 

 監督を武将に例えるなら、この男に課せられた役割は、敵情報を盗み取る「乱破(らっぱ)、素破(すっぱ)」であろう(紀州生まれだけに根来衆の末裔か?)。ただ、同じ忍者といっても赤松真人や菊池涼介のようにかっこいい「赤ニンジャ」ではない。少年の目は自然と「陽」である藤井弘の方に吸い寄せられ、「陰」である柴田猛は自然と闇に隠れる。だが本物の仕事師のスゴ味はそうしたところにあるのではなかろうか。

 

 84年パリーグ打撃部門三冠王ブーマー・ウェルズ。このチャーリー・マニエル以上の難敵をどう攻略したのか。その糸をたどっていく過程でこの人物の存在にいきついた。この「影(忍者だけに)の仕事師」の業績についてふれたいという衝動にかられての寄り道である。話が中々前に進まぬ事を読者にお詫びしたい。