1巻のみ三浦追儺が原作で漫画を書き起こしています。2巻以降の永井圭と比べて、少し感情的な部分が目立ちます。自分が亜人だと発覚した際には、かなり焦っていました。しかし、追手を追い払って、その後小屋に向かい、そこで休息をとっている頃には、聡明な永井圭が存在し、冷徹な部分も見せています。絶望的な状況下でも涙一つ見せないあたり、永井圭は狂っています。海斗という良き友人も、一瞬で切っています。常に最善の選択をしています。

 

海斗も不思議な人間です。亜人が世界中に47人存在するという事実に対して「たいして珍しくもねえな」と発言しています。海斗は永井圭に対し、こう発言しています。

 

「お前は人間だよ」

「少なくとも俺はそう思ってる」

 

永井圭は性質上亜人ですが、海斗からみたら永井圭は人間だと発言しています。一般的な呼称で区別をするのではなく、人の本質をみることが重要だと思わされる発言だと感じます。

 

もし自分自身が亜人だとバレた場合の考えを、永井圭はこう話しています。

 

「殺しちゃえば生きかえることすらできないんだからなあ………」

 

最低の発言ですが、かなり論理的な思考がとれているともいえます。どんな状況下でも、いかに冷静に考え行動するかが肝要だといえます。

 

 

 

 

著者:坂口安吾

 

テーマ:堕ちるとは?

 

堕落について述べているらしいので、気になった。「私は死ぬかも知れぬと思っていたが、より多く生きることを確信していたに相違ない。」という部分がある。


最後に「〜に相違ない」と終わっていることから、自分のことをかなり客観視できていると思われる。「あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。」という部分は、子どもたちの姿を表しているのだろう。


つまり、どんな危機的状況下でも、子供達のように明るく未来をとらえたら堕落することはないということなのだろう。

 

「堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。」

 

武士が終わったときの坂口安吾の感想である。今を生きている我々からしたら、武士という職がなくなったことは、堕落ではなくむしろ近代化して人間社会が成長したと考える。


時代時代によって人の考え方は変わるものである。人間は脆弱なのだから、堕ちるようにできている。


戦争があったから堕ちたのではなく、人間だから堕ちたという表現は非常に的確である。


相変わらず古典は面白い人生のヒントが詰まっている


最後の一文にはこう書かれている。

 

「政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である」

 

外的環境によって自分が救われるのではないということだ。


このメッセージと似た言葉をショーペンハウアーも言っていた気がする。「内に目を向けろ」と発言していたはずである。


堕落という言葉は我々からしたらマイナスイメージの言葉だが、坂口安吾は違うイメージをもって堕落という言葉を使用している気がする。

 

 

 

 

 

セネカ(著), 中澤 務(翻訳)

出版社:光文社

 

人生の短さについて

 

テーマ:より少なく、より良く

 

自己啓発系の古典はやはり刺さるものがある。

「みんなお金の大切さには気づいているけど、時間の大切さには気づいていない」という主張は全くもってその通りである。私もスマホにかなりの時間を浪費したりしている。そして、過去を振り返ると自分の欠点がわかり、その欠点をフィードバックすることで、より良い人生を送ることができるのを知っているのにそれをしない。なぜなら、それをすると過去を悔いる気持ちが生まれ、不愉快な気持ちが生まれるからである。しかし、過去の自分と向き合わなければならないのである。

 

本書では「先延ばしは人生最大の損失だ」と公言している。なぜなら、未来を担保にし今という時間を犠牲にする行為が先延ばしをするという行為だからだ。ずっと頭のなかにやらなければならないことを思い描きながら、他の作業をする行為は明らかに楽しんでないし、少なくとも「自分の時間を生きているか」と問われれば、否だといえるだろう。セネカは「英知にふれ、その英知が示す通りに行動することが人生をうまく生きるコツだ」と述べている。その際、ソクラテスやデモクリトスの名前が出てきている。つまり、過去の偉人の言葉にふれ、その言葉通りに行動することの重要性を説いているのである。

 

母ヘルティアへのなぐさめ

 

※括弧書きの部分は本作を引用している部分です。

 

個人的に好きな章です。

 

「たえざる不幸は、ひとつの恩恵を与えてくれます。──たえず苦しめ続けることによって、ついにはその人を頑強な存在にしてくれるのです。」

 

良いセリフです。辛い経験をしている人間ほど逆境に強いといえます。逆に、幸せな思いばかりしている人間は最も軽い災難の一撃で、崩れ落ちれば良いともいっています。セネカは幸福な人間に対して嫉妬しているのでしょうか?

 

「われわれの外部で起こることは、それほど大きな影響を及ぼしません。よいことであれ、悪いことであれ、それが大きな力を持つことはないのです。」

 

我々はいつも悩む必要のない外部のことで悩んだりしています。仕事がうまくいかなかったり、暇を持て余したり、彼氏や彼女ができなかったりといろいろ悩みの種類は存在するといえます。しかし、前述した悩みは全て外で起こっている事柄です。セネカはこう続けます。

 

「賢者は、順境に有頂天になることも、逆境に意気消沈することもありません。なぜなら、賢者は、できるかぎり自分自身に頼り、すべての喜びを自分の中から引き出せるように、つねに努力をしているからです。」

 

外の世界で起こる悩み事をうじうじ考えるのではなく、自分の内的世界を見ることの大切さを説いています。幸せは自らの肉体のみで作り出すことが可能だと主張しています。ショーペンハウアーも似たような主張をされています。

 

「順境にあっても思い上がることのない人は、たとえ状況が変わっても、落ち込むことはありません。」

 

常に浮かれず、平常心を保ったまま生活することの重要性を説いています。穏やかな生活が一番幸せであることを示しているのかもしれません。

 

「貧困は悪ではなく、精神のありかたのほうが大切である」

 

世俗的なものを喜ぶのは、心が狭い証拠だと断じています。人間としての「徳」を重要視されているのではないかと思います。

 

「徳があれば恥辱にもたえることができる」

 

どれだけ嫌がらせを受けたり、嫌味を言われたりしても、人間としての徳があるという確固たる軸がしっかりしていれば、自らの心が折れることはないともいえます。自分が正しいと思っていれば、メンタルは傷つかないでしょう。

 

「学問は、あなたの傷を癒し、あなたの悲しみを、すべて取り去ってくれるでしょう。」

 

我々が抱えている悩みや問題は既に哲学者たちが答えを出しているといえます。その先人たちの知恵をフル活用するために、本を読むことは大切なことであるといえます。

 

心の安定について

 

※括弧書きの部分は本作を引用している部分です。

 

セネカの親友であるセレヌスが、セネカに対し悩みを告白する手紙を送るところから始まります。

 

「閑暇を持て」というメッセージをセネカは送りました。ここでいう閑暇とは、単に「暇な時間を作って怠惰に過ごせ」ということではありません。空いた時間を自分がやるべきことに時間を使うよう意識しろとのメッセージが含まれています。セネカがいうやるべきこととは、「英知に触れ、その英知に従って行動する」ということです。つまり、「本を読め」ということなのでしょう。

 

正しく自分を評価することの重要さも説いています。自分の能力はどうしても過大評価してしまうのが人間です。その事実を受け入れた上で、客観的に自分を見つめ直すことが重要だといえます。セネカはこうも主張しています。

 

「もって生まれたものに逆らうと、努力も無駄に終わるのである。」

 

自分がいくら好きな職業であっても、向いていないものだといずれ徒労に終わることを示しています。向いていないものだと、最初好きであっても、だんだん嫌気がさしてきて嫌いになってきます。私もそういった経験があります。もっと早くセネカの著書に出会っておけば良かったと思います。

 

「まず心に留めるべきは、持たないほうが、失うよりも、はるかに苦痛が少ないという事実だ。」

 

お金をそもそも持っていない人間が日々の生活を送るより、金持ちの人間がお金を手放す状況の方が耐えられないということでしょう。欲望のままにお金を使う人間は非常に危険であることが示唆されています。

 

「自分を幸運とみなす基準をできるだけ低くすれば、より安全であろう。」

 

すばらしい言葉です。幸せの基準が低ければ、どんな状況下でも楽しめる気がします。求めるのではなく今ここにあるものに感謝をすることが、重要なのではないかと感じました。

 

「起こりうるすべてのことを、現実に起こるものと想定して用心する。」

 

うまくいくことしか考えていない人間は、不意の一撃に耐えられないでしょう。あらかじめ備えをしておくことが肝要だといえます。

 

「だれかに起こりうることは、だれにも起こりうる」

 

ネットで誹謗中傷を行ってストレスを発散させている人々が現実世界には存在します。芸能人と同じような不幸が起こることはないとおもいますが、似たような不幸が自分にも起きる可能性があると常に用心する必要性はありそうです。

 

そして、仕事をする際は必ず目的をもってすることが重要だと述べています。

 

「われわれは、なにごとも軽く見るようにし、心を楽にして、ものごとに耐えるべきなのである。人生を嘆き悲しむより、笑い飛ばしたほうが、人間的なのだ。」

 

特に日本人は何かあると真面目に考え込んでしまうことが多いと思います。もっと人生を軽く考えても良いのではないでしょうか?軽く考えることによって、以下のようなことが起こるとセネカは主張しています。

 

「人生の様々な出来事のなにひとつとして、重大だとも、深刻だとも、悲惨だとも思わないのである。」

 

楽観的な思考を得られることを示唆しています。

 

「ひとの生は、懐胎されたときより神聖になるわけでも、過酷になるわけでもない。ひとは無から生まれ、無に帰っていく

 

何か嫌なことがあったり、緊張するようなことがある場合は、「すべては過ぎ去っていく事象でしかない」と思うことが重要だといえます。

 

そして、自分を取り繕わないことが肝要だと主張しています。いつも取り繕っている人の人生が楽しいわけないです。

 

ときには、狂ってみるのも良いともいっています。何事も考えず狂人のように振る舞うのは楽しそうです。

 

しかし、最後にセネカは「揺れ動く心を包み込んでやらぬ限りは、以上の方法は有効とはいえない」といっています。常に自分の心に目を向け癒やすことが前提条件としてあるそうです。

 

 

出版社:光文社

バタイユ(著), 中条 省平(翻訳)

 

マダム・エドワルダ

 

テーマ:美しい女性の象徴

 

意味不明である。何を伝えたいのかわからない作品である。ただ、メッセージはあるけど、自分がそのメッセージを汲み取れていないということなのだろう。

 

マダム・エドワルダは自分のことを神であると発言していた。しかし、タクシー運転手もたぶらかす痴女である。時折マダム・エドワルダが涙をみせて男の気を引いたりするので、私からするとかなり苛々する。

 

作品の意味がわからなかったので、レビューを見てみた。理屈で考えて読むのではなく、感覚で感じることが重要であると書いてあった。読書は理性的なものであると感じていたが、そうではないらしい。本作みたいな作品もあっていいと感じられた。だから、感想を描くこと自体、本作にとっては野暮な行為なのかもしれない。

 

メッセージ性でいくと、本文よりも序文が重要かに思える。無理矢理解釈をすると、裸というものは「いつも素でいますか?」というメッセージなのかもしれない。多分違う笑 メッセージ性はそもそもないのかもしれない。藤本タツキの漫画作品である『チェンソーマン』にも同じことがいえる。チェンソーマンを批評する評論家が「このシーンにはこういうメッセージがあって…」と発言するときがあるが、多分深読みだろう。自分もよく深読みするので、気持ちはわからなくもない。自分も今マダム・エドワルダという作品を深読みしているだけなのかもしれない。

 

目玉の話

 

テーマ:周りに気味悪がられることを恐れない女、欲望を解放する女

 

ただならぬ小説を読んだ。不思議な話である。私の価値観をぶっ壊した小説である。我々の性癖を歪ませるほどの効力を持つ作品である。解説も読んだが、よくわからない。「エロティシズムとは、死に至るまでの生の称揚である。」という部分はなんとなく共感できる。解説によると、エロティックな部分は単なる性的興奮ではなく、なにか大きな意味をもっていると解釈するらしい。自分の気持ちがふわふわしているので、ちょっとよくわからない状態に今陥っている。

 

シモーヌが一番狂っている。私という主人公はただ性欲に踊らされている人間に写った。シモーヌが狂っているので仕方なく彼女の遊びに付き合っているようにしか見えない。皆さんも、もし彼氏や彼女ができた際は、ぜひ玉子に尿をひっかけてプレイをしていただきたい。そして、女性側にはシモーヌのように痴女を演じてもらったらいいだろう。セックスする際は球状のものを未来の彼氏や彼女の尻に入れていただきたい。どうしてくれるのだ。私の頭がおかしくなってしまったではないか。しっかりとしたメッセージで価値観を壊されたのではなく、頭のおかしい人間によって自分の性癖や価値観がぶっ壊された。

 

本作は普通の感覚を持っている人間を狂人へと変えるとんでもない小説なのかもしれない。シモーヌというキャラクターはぜひ実在してほしいものだ。結局シモーヌは破滅する。狂人キャラは破滅の道がお似合いである。逆に「幸せに暮らしました」という感じで終わっても、それはそれで狂っているので物語としてはありかもしれない。

 

「きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。」

 

前述のセリフで本書は開始している。狂人の人生を見ることで、そこまで普通に生きることに拘る必要がないということを示したいのかもしれない。シモーヌは自分の欲望が周りから見て、とても奇異なものでも気にせず、開けっぴろげに欲望を開放していた。一方、主人公はまだその域に到底たどり着いていない。

 

この主人公は我々のことを示しているのではないか?「本当はこうしたい」という欲望があるけど、周りの目や勇気がなくて行動できずにいる人間を表しているのである。しかし、我々がもっている汚い欲望より、シモーヌが持っている欲望の方が明らか異常である。シモーヌは欲望を完全に開放している。

 

我々はシモーヌを見習うべきなのではないか?

もっと欲望に正直に生きてもいいのではないか?

変に美人やイケメンと付き合えないと勝手に考えたりするのは野暮なのではないか?もし付き合えたとしても周りに嫉妬されたり、美人の彼女やイケメンの彼氏に浮気されたりするのを妄想するのは、マルセルと同じ思考をしているのではないか?

 

皆さん、もっと欲望を開放していこう

自分も意識しよう。

 

 

 

原作:渡航

 

社会全体をななめから見る比企谷八幡によるラブコメ作品です。彼の影響を受けた人は数多くいるのではないでしょうか?かくゆう私も影響を受けていました。

 

何の能力も保持していないが、他の人に認められたいという複雑な性格をお持ちの相模南という人物がいます。相模南は奉仕部に「文化祭がうまくいくようフォローしてくれ」という依頼をします。自分がまず頑張るべきところをすぐ他人に頼っています。そして、自分の承認欲求を満たすために、雪ノ下雪乃を利用したり、由比ヶ浜結衣に対して嫌味をいったりしています。雪ノ下雪乃はよく我慢しているなと感じます。我慢しすぎたせいで、雪ノ下雪乃は過労になり学校を休むことになります。相模みたいな人間がいるから依頼を真面目に遂行しようとする比企谷八幡や雪ノ下雪乃が苦労することになるのです。優しい人間は搾取される運命なのでしょうか?私なら相模南に地味な作業をするメリットを提示することで、相手を動かそうとします。

 

比企谷八幡はかなり偽悪的な人間です。見ていて本当に可哀想になります。本当は彼なりに依頼を忠実にこなそうと頑張っているのです。ただ、かなり不器用なせいで、周りの人に誤解を与えています。相模南は比企谷八幡に色々言われてから泣いています。自分が悪いのに被害者ぶって泣く人は個人的にとても嫌いです。葉山は比企谷の指摘した相模南の欠点の部分について気づいてはいると思います。気づいた上で、相模南がかけてほしいと願っている言葉をかけたのです。

 

 アダム・グラントさんの著作である『ORIGINALS 誰もが「人と違うこと」ができる時代』にこういったことが書かれていました。

 

「非常に似通っている者同士のわずかな違いこそが、互いのあいだに違和感や敵意といった感情を生み出す原因になっている」

 

比企谷と葉山はお互いを嫌い合っています。しかし、2人は似て非なるからこそ嫌い合っているという考察をすることができます。比企谷も葉山も赤の他人がうまくいくように行動しています。比企谷は相模南の依頼がうまくいくように仕向け、葉山はみんなの仲が壊れないように立ち回ります。しかし、比企谷と葉山のやり方は真逆です。比企谷は本音でもって相手の欠点を指摘し、その相手が是正するよう仕向けます。葉山は相手がかけてほしい言葉をかけることにより、みんなの仲が壊れないよう行動します。私から見ると、双方悪い人間には見えません。

 

私なら心のなかで比企谷のような行動をしたいと思いながらも、その行動をとると自分の立場が危うくなるので、結局何も行動を起こさないと思います。多分大多数の人間がそう感じていると思います。だからこそ、比企谷八幡という主人公が魅力的にみえるのです。普通はあそこまで自分を貫くことはできません。

 

個人的に平塚先生は好きです。面と向かって比企谷八幡に毒づきながらも、時折アドバイスを送っています。

 

「比企谷。誰かを助けることは、君自身が傷ついていい理由にはならないよ」

 

平塚先生が比企谷に送った名言です。アダム・グラントさんの著作である『GIVE & TAKE: 「与える人」こそ成功する時代』につながるところがあります。(アダム・グラント著『GIVE & TAKE: 「与える人」こそ成功する時代』についても書評を行っているので是非見てください。)比企谷八幡は自己犠牲型ギバーといえます。この平塚先生の思考は、他者思考型ギバーだといえます。つまり、「自分を切らずに相手を助ける方法を模索しろ」ということをいっているのだと思います。自己犠牲型ギバーはヒーローみたいでかっこよく見えますが、その行動を起こしている本人は傷ついています。比企谷八幡はメンタルが強いといえど、心の底では傷ついているのだと思います。その内情を見かねて、平塚先生は比企谷を救う言葉を送ったのではないでしょうか?

 

「例え、君が痛みに馴れているのだとしてもだ。君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間もいることにそろそろ気づくべきだ、君は」

 

1つ目の名言に続けて平塚先生が発したセリフです。比企谷八幡はかなり卑屈な主人公です。自分を過小評価している節があります。その影響により、「自分を好きな人間なんて存在していない」と感じているでしょう。しかし、実際は比企谷を心配している人間はいるのです。雪ノ下雪乃は比企谷に対し、外面では悪態をついていますが、内心気にかけてはいると思います。由比ヶ浜結衣に関しても同様です。そして、セリフを発した平塚先生本人もその1人です。確かに、比企谷は学校一嫌われている人間かもしれないですが、だからといって全員が敵かと言われるとそうではありません。ゼロヒャク思考に陥ってはいけないのです。逆に校内で一番人気のある葉山ですが、全員に好かれているわけではありません。

 

比企谷は何が本当に正しいのか彼なりにもがいています。不器用にもがいているからこそ、人間としての魅力があるのだと感じます。

 

 

 

学級内でコロシアイをさせられるデスゲーム作品です。個人的に好きな作品です。

 

※以下、ネタバレ含みます。

 

 

 

 

 

 

 

黒幕は最序盤に死んだ江ノ島盾子でした。最初に死んだと思われていた人物が実は生きており、黒幕でしたという展開はありきたりではあります。絶望を世界に撒き散らしたいという迷惑この上ない動機があったせいで、事件が起こります。過去に江ノ島盾子自身が絶望を経験し、さらに他人を絶望させた経験もあったので、その絶望をもっと他人にも与えたいという欲望に変化したらしいです。この流れだけ聞くと、自分が不幸だから、幸せな希望に満ちあふれている人たちに対し苛つき、絶望を与えるという意味に聞こえます。しかし、そうではないことがアニメを見ていただくとわかります。江ノ島盾子は絶望そのものを愛しているのです。だからこそ、絶望がどれだけ素晴らしいものかをみんなにわかってほしかったのではないでしょうか?そう考えると、事件の内容に反して江ノ島盾子本人はとても純粋な心で事件を起こしていたといえます。純粋な心が悪に染まることは一番危ない状態だといえます。

 

主人公である苗木誠は希望に満ちあふれている人間です。人殺しが行われている絶望的な状況下でも希望を持っています。江ノ島盾子と対局の人間です。だから、本作は正義VS悪という意外とシンプルな構造だったりします。

 

現実世界でも嫌なことはたくさん起こります。しかし、どの現実世界の嫌な出来事も、苗木誠の状況と比べるととても小さいものだといえます。私達は苗木誠を見習って、いかなる状況下でも希望を持つよう意識する必要があるのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

原作 暁佳奈
アニメーション制作 京都アニメーション

 

作画はとても綺麗な作品です。作画に関してはアニメの中でトップオブザトップだと思います。

 

ギルベルトにいわれた「愛してる」の言葉の真意を探す物語です。正直なところ、私は「愛してる」がどういう感情かということに全く興味がありません。そのせいで、全く物語にのめり込むことができないのでは、と思っていました。しかしながら、そこは作画の綺麗さで物語に入り込むことができました。ただ、感情の起伏の少ない人間が愛情を知るという構成はありきたりではあります。

 

本作で名作回といわれているのが10話です。病気で死を悟った母親が娘のために未来の手紙を1年ごとに書いていたというシーンがあります。私はその手紙を書く時間があるなら、少しでも娘と共に過ごす時間を作った方が良いと感じました。しかし、未来の手紙を残すという行為は母親から娘への最大の愛という捉え方もできます。

 

インターネットで調べたところによると、アニメのラストシーンと原作のラストシーンは違うらしいです。原作ではギルベルトが生きており、ヴァイオレット・エヴァーガーデンとギルベルトは結ばれるらしいです。アニメでは、ギルベルトの生死がわからない状態となっています。わからない状態ではあるけど、その事実を受け入れて人生を歩んでいくヴァイオレット・エヴァーガーデンの表情が見れます。個人的にはアニメのラストシーンの展開が好みです。

 

他人への共感能力が欠如しているタイプの人間には刺さらない作品だとは思います。人に対しての共感能力に溢れた感受性豊かな人間におすすめしたい作品です。

 

 

 

 

 

話のテンポが良い

ギャグアニメなので評価すること自体が難しいですが、ギャグアニメとして最大の賛辞を贈りたいと感じました。キャラデザも良いし、キャラクター自身の魅力もあり。ストーリーも、笑いどころが随所にみられる。召喚獣同士で戦うという斬新な設定。評価の五角形が総合的に大きい作品という印象になりました。

 

 

 

 

ドストエフスキー(著)

 

前半はアリョーシャ、後半はドミートリーが主人公で物語が展開されていく。ドミートリーがかなり不器用である。アルベール・カミュの小説である『異邦人』の主人公であるムルソーを思い出す。ムルソーも裁判の際、正直すぎたせいで捕らえられることになっている。立ち回りが大事だといえる。ドミートリーはかなり感情的に話しているので、言っていることは正しくても、伝わらない。非常に不憫な感じになっている。その点、トリフォーンは即ドミートリーを裏切っているが、立ち回りとしてはうまいといえるだろう。しかし、私はこういった人間が好きではない。グルーシェニカは裏切っていないので、ドミートリーへの気持ちは本物だといえる。ドミートリーは個人的に好きなキャラである。応援したくなる。熱血漢である。盗もうとしたことも正直に話すし、己が一番罪深いとまでいっている。かなり偽悪的な人間であることがわかる。ドミートリーは「自分はどういう存在か?」ということを考え込むところがある。私は損得勘定にとらわれるときが多いので、そこまで考え込むことがない。だからこそ、そういうところで悩んでしまっているドミートリーがかなり可愛くみえる。次巻では無罪を勝ちとってほしいものである。