オサマ(ウサマ、ウサーマ)・ビン・ラディンを殺害した、とアメリカ政府が発表した。

報復があるかもしれない、というので、アメリカ国内では警戒がものすごく厳重になっているそうだ。

報復の予感からアメリカドルが売られた結果、日本でも円高になっている。


つくづく思う。報復が心配なら、なぜ世界は(特に西側世界は)イスラム教にもっと敬意を払わないのだろうか。


一夫多妻や、女性が髪や顔を隠す習慣があるからといって、「イスラム教は女性蔑視の宗教」と決めつけたり、

イスラム原理主義者やテロリストばかりを取り上げて、「イスラム教は過激だ」というのは、偏見だと思う。


今回アメリカは、おそらく遺体が崇拝の対象になることを懸念してだと思うが、遺体を海に沈めてしまったそうだ。

CNN.co.jpは、『ビンラディン容疑者の遺体は水葬に、米空母で宗教儀式 』という記事で、ホワイトハウスの発表を

引用し、「……葬送は、イスラム教の教えと慣習を厳格に守って行われた」と書いている。


しかし、イスラム教に水葬の習慣はない。土葬でなければ、イスラムの教えにのっとっているとは言えない。


埋葬地が聖地と化してしまうことを、アメリカ政府が恐れた結果かもしれない。

けれども、海に沈めたことは侮辱的な扱いで、イスラム教徒の強い反感を買ったことは間違いない。


イスラム教に本気で敬意を払っているつもりなら、もっと別の方法が、何かあったのではないか?

そもそも、他国に勝手に侵入して軍事作戦を行い、裁判もなしに容疑者を殺害するというのはどうなのだろう。


確かに、テロは卑劣な行為だと思う。

でも、今回のアメリカの行為は、テロにテロで報復したようにしか見えないのは、私だけだろうか。


地震直後から、常に揺れているような感じ、頭がぐらぐらする感じといった、地震酔いの症状が続いている。

困ったことに、比較的、実際の余震がおさまっている間も症状は消えない。

同じような人は多いらしく、「地震酔い」は、すっかり一般的な言葉になったようだ。


地震酔いのことを、英語ではファントム・クェイク(phantom quake)という。

ミュージカル『オペラ座の怪人』の「怪人(ファントム)」。意味は、まぼろしや幻覚、幽霊といったところ。

医学用語としては、切断等して存在しない体の部位(幻肢)に感じる痛み、幻肢痛(ファントム・ペイン)が有名だ。


何となくだけれど、日本語の「地震酔い」よりもファントム・クェイクのほうが、

「(実際には揺れていないのに)まぼろしの地震を感じる」という雰囲気が、よりよく出ているような気がする。


ニューヨーク・タイムズは、「日本では、心の中にも余震が起きている」という見出しをつけた。

("In Japan, the Aftershocks are Also Felt From Within", The New York Times, Apr 13, 2011)


ファントム・クェイクはまぼろしの地震だとしても、それが呼び起こす不安・不快な症状は、まぎれもなく現実だ。

錯覚とわかっていても、どうしても反応してしまう。


なるべく気にせず、さらりと受け流すのが一番なのだろうけど、これがなかなか難しい。

揺れているのは気のせいだろうと思っていると、本物の余震だったりするから、なおさらだ……。


数週間前に、また自転車で大転倒した。


けっこうひどい擦過傷や打撲傷、裂傷があちこちにでき、肩の筋肉もひねったようで、とにかく体中が痛かった。


でも、人間の体というのは本当にすごい。一週間、二週間と過ぎるうちに、自然と痛みは引き、あざは薄くなり、

傷はかさぶたになって治っていく。今は、赤黒く変色して少し引きつれた傷あとが、いくつか残っているだけだ。


体は、癒える力を持っている。


心も同じだと思う。


今は「癒やし」がブームだけれど、本来、人間は自分自身の自然の力で癒えていくもので、癒やすというのは

その力を引き出すきっかけを作ることではないだろうか。


そんなことを考えていたら、まさにどんぴしゃの題名の、一冊の本に出会った。

癒える力/竹内 敏晴

医療・看護に関することが中心の本だが、癒やしようのないものに直面した時こそ、人間が本来もつ「癒える力」
を信じるしかないのだという。なるほどと思った。

東日本大震災。このあまりにも大きく癒やしようのない喪失、悲しみ、苦しみが消えることは、決してないだろう。
それでもいつか、心が癒える日がくることを信じたい。

最近よく引用されている言葉がある。


「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい」


寺田寅彦(物理学者・随筆家)の言葉だそうだ。Wikiquoteによれば、出典は『小爆発二件 』(1935年)。


確かに、今の状況にぴったりな言葉だと思う。


「どう考えるべきだろう?」と常に疑問を抱き、考え続けること。

それこそ、「正当に怖がる」ことではないだろうか。

恐れるあまり、思考停止に陥ってしまわないことが大切なのだと思う。


考えさせられる記事:日本の真の色が光るように 外国メディアも混乱しまくった大惨事のその先で


今回の地震そのものについての話は、もうすでに巷にあふれているので、書かないことにする。

(ありがたいことに、直接の被害はありませんでした)


いま、避難所でインタビューしているマスコミが、しょっちゅうする質問がある。


「足りないものは何ですか?」


答えからみて、目下何より深刻なのは、どうやら灯油やガソリンなど、「燃料の不足」だ。


けれどマスコミは、質問を投げかけて答えを報道するだけで、それについてどうにかしようという気はないらしい。

燃料の不足は被災地だけでなく、ほとんど全国的な規模で起きているのに。


燃料は実際にどれだけ不足しているのか?それに対して政府は何をしているのか、あるいはしていないのか?

石油元売り各社はこの事態に対して、どうコメントするのか? どう対処するのか? 被災地への運搬方法は?


燃料が不足していることは、もう明らかだ。いつまでも同じ質問を繰り返していないで、その先をきちんと調査し、

追求して、報道してほしい。それこそが、ジャーナリズムの役割ではないだろうか。


「足りないものは何ですか?」


いま一番足りないのは、燃料不足の問題を解決するための、具体的な「アクション」だと思う。




※義援金を送りたいけれど、窓口がいろいろありすぎて迷ってしまった方はこちら→日本赤十字社


[追記]

 ↑を書いてから、ほぼ24時間経過。被災地へ鉄道のタンク車を、海路フェリーを向かわせるという計画なども

ニュースで取り上げられたけれど、どれも今すぐ、必要なところに届くという話ではない。時間だけが過ぎてゆく。