『衣と鎧』 | アリス高崎障がい者就労継続支援

アリス高崎障がい者就労継続支援

群馬県高崎市にある障がい者就労支援施設です。
心の病の方が主に利用しています。
安心感と楽しさと仲間同士のつながりの中での回復を一緒に目指していける、そんな場作りを心がけています。
悩みをゆっくり話せる個人相談の時間も大切にしています

 

 

アリス高崎

ブログ担当 N です

少年期から青年期における僕にとってのこの世界のヒーローは、

実は、

アントニオ猪木でした。


僕の少年時代から青年時代に至るまでのヒーローが天国に召されたので、
実は、アントニオ猪木のエピソードから始まって書いた文書が、ず〜っと前に書いたブログの記事であったので、
せっかくのですので、今回その記事を載せたいと思います。




 『衣と鎧』


以前インターネットの記事で、アントニオ猪木がインタビューで、奥さんが亡くなられた2〜3日後にバラエティー番組の収録があって、

その時いつものように、首に赤いマフラーを下げて

 
「元気ですかー❗️」

 
と言わなくてはならなかったそうです

 

 

 「あれは本当にきつかった…」

 

と言っていました

 

 僕は本当にしみじみと

 
「そりゃ、きつかったろうなぁ…」

と思いました

 

 
なんか僕、その話がずっと頭に残ってるんですよね…なんか、よくしばしばそのことを思い出すんです…

 

「アントニオ猪木…その時、きつかったろうなぁ…」

って

 

どうしたって、みんなの心の安らぎの場所を作りたいと思ったら、

 こちらの気分次第で場の空気感を一喜一憂させるわけにはいきません…

 だから感情の赴くままにそれを場に表すわけにはいきません…

 
アントニオ猪木が奥さんを亡くした時のように

「元気ですかー❗️」

と叫ぶような心境ではないのに、そんな感じでいなくちゃならない時も…まぁ人間だからあります…

( といっても、僕はまった〜く熱くない人間なので、
この人生の中で、ただの1度も首に赤いマフラーを下げて

 「元気ですかー❗️」

 と叫んだ事は無いけど…)

 

でもまぁ、その時のアントニオ猪木の心情が胸にしみてくるような感じの時もあるっていうことです

つまり、まぁ、とてもじゃないけど笑ってられないっていうような心境なのに
笑ってなくちゃならないような時もあるっていうことですよね

まあ人間だからね

(きっと人間ってみんなそんなふうにして生きているんでしょうね…大なり小なり)

 


 お金もらって仕事やってるんだから「責任」はあるから、

アリスにいるときは職員としての「衣」を着ている部分もあります。

 それはやっぱり責任として着ています

 


 ピアサポートというものがあります。


ピアサポートというのは、
同じ病気を持った人同士だからこそ分かる心で助け合うという、
そういう関係性や活動のことを言います。

精神の病においては特に同じような病気を持った人どうしたからこそ分かるという心境があるので、
ピアサポーター活動というのは今とても着目されています。

僕はそれはとても大切なものだと思っています。

それでもって
ピアサポーターの活動をしている人たちはみんな精神の病を持っているから、みんなそれぞれに不安定な心を抱えながらも頑張っているわけだから、
その人たちがピアサポート活動をやって行くために、そのピアサポーターを支えたり、応援したりする福祉施設の支援者も必要なわけです。

そういう福祉施設の職員のことを
「ピアサポート支援員」
と言います。

僕は精神障害者の立場でもあるので、当事者として、
「ピアサポーターの体験」
もしてきましたし、

同時に今、福祉施設職員として
「ピアサポート支援員」
の方の立場も、
両方を体験しています。

だからピアサポートを行う方の当事者の感覚も
その当事者を支えて行く福祉施設の支援者の立場の感覚も
自分なりに両方ともわかるところがあると思います。

それでそんなふうに、
両方ともの立場が感じられる微妙な感覚の中で、よく福祉施設職員同士の

「〈ピアサポート支援者〉の研修会」

などに参加したりする時があります。

ピアサポーターの支援をする福祉施設の職員の研修などで、

よくテーマとして

「職員と利用者の対等性」

と言うのを聞いたりするけど、

そういうのが大切だって聞いたりするけど…

 
僕は忘れちゃいけないと思うのは、
「責任」というものがある以上、絶対「対等」じゃいけないんと思うんですよね。

というか、純粋に対等でいられるわけないと思うんですよね。


軽くむやみにそんな事は言わない方が良いなぁ…と感じてるんです


そのことを、よーく、胸に痛みを伴って刻印した上で、

もう一度、

それでももう一度


「人と人としての対等性」

を願って、求めていったほうがいいと思うんですよね。





僕は長年、大きい病気を患って、長年、障がい者施設を利用者として、その当時からいろいろな障がい者施設の利用者のみんなと同じ立場で深く関わってきました。


だから対等に関わるっていうことが、どういうことだか、
すご〜くよく分かってるところはあると自分では思っています。

 
感覚として骨身に染みています

 
それだけに、職員になったときの関係性の変化も感じました。


関係性の中に責任と言うものが生まれるようになったのです。
あくまで自分の心の中での変化ですけど。

 

だから職員と利用者が

「人間として対等に」

とかいうのは、すごくきれいな言葉に聞こえるけど、

絶対そんな簡単なものじゃないっていうのもよくわかるんです。

 
とにかくそこには「責任」があるんだから。

同じ利用者同士で友達同士的に助け合ってた時と圧倒的に違いを感じたのは、やはりその責任の部分でした。

 

友達同士として助け合っていた関係は、もうその時点で消えたわけです。

 

友達同士のような純粋な対等性は消えたわけです。

 

あの頃感じていた対等性というのは、もっともっと自由で気楽なものでした。

ある意味それだけに純粋でした。

( 僕は思うんです、
本当に対等な関係っていうのは
『嫌だったら、いつでも切り離してもいい』という自由を持ち合わせている関係だから、『対等』なんだと思うんです。
そこに責任うんぬんの問題を持ってくる必要がないから、それは『対等』であると思うのです。

でも、そこに責任と言うものが入ってきたとき、対等性よりも必要になるのは、

「この人とこの人の抱えている問題に本気で関わり続けていくぞ」

という『覚悟』だと感じました。 )

 



でもですね…そうはいっても僕、

 
「な〜んか疲れてるねぇ〜」

 
と平気でメンバーから言われてしまうくらい、

疲れた姿、見せちゃったりもしてます。

 
ずいぶん平気で見せられるようになってきました

 
それは僕にとっての結構な成長かもしれません

 

今でも、アントニオ猪木が、奥さんをなくした2〜3日後に

「元気ですかー」

と声をあげていたような心境はいつでも持ち合わせているけど…

同時に

「疲れてるね〜 大丈夫かい?」

 なんて言われちゃうくらいに、モロさを丸出しにできている自分もいます。

その時は一人の人間としてのそのままの姿を出しているわけです、



 

 お金もらって仕事やってるから『責任』はあるし、職員としての「衣」を着てはいます。

それはあります。

 

そこに来ている人たちを守っていく責任があるから。

(この部分は『覚悟』がないとやり遂げられないと思っています)

 


でも「衣」は「衣」であって、

 それがもし「鎧」になってしまったら…もう人と人との心が通いあわなくなってしまう。

 あくまで「衣」程度のものです。


ちゃんと1人の人間として心が通い合うように。

 
それだけは守りたい、自分自身に対して。

 

 

職員として、利用者と

「人間として対等だ」

なんていう事は、きれいすぎてあまり言いたくないです。

 
病で働けない人の辛さわかるから…だからむやみに「対等」なんて言葉は使いたくないんです。

 
だって職員は、今、お金もらってて、働けていて、ある程度の一定の安定があるんだから。

 
社会的な役割をもらえているんだから。

 

 先の見えない不安感と…
社会的な役割をなくした時の自尊心が…

全然…違うんです

 

 

だから、もうピアスタッフ(精神障害を患ったことのある当事者の福祉施設職員のこと、つまり僕はその一人です)
と言ったって、利用者の人たちと同じである訳がないんです、立っている位置が。

 
同じ空間にいたって、立っている心の位置は違うんです。

 

あの頃の崩れた自尊心と、今の僕の心では、もう立ち位置が変わっているわけですから。


あの頃、崩れていった自尊心の中で、日常をなんとかもがくように探して取り戻そうとしていた心は、

もう、今の慌ただしく、忙しそうに飛び回っている職員という社会的な安定を得た僕の心では、

過去のものとして薄らいでしまい、次第、次第に、あの頃の感覚がわからなくなっているのです。

 

崩れた自尊心の心で、虚しさに包まれた日常に溺れないように、必死に藁をも掴むような想いで暮らしていた頃の心は、

もう過去のものとして薄らいできてしまっているのです

(その虚しさに溺れ切らないように、何とか藁をも掴むような想いで自尊心を取り戻そうとしたものがピアサポート活動でありました、僕にとっては。)
 
精神障害者として日常生活を失ってしまった当事者たちの虚しさを、

本当に我が身のこととして、

はっきり感じていた自分自身は、

今の、忙しさという充実感のような心を持った自分からは遠のいてしまっているのです…

 

 そのことは胸の痛みとしていつも感じています。

そしてそのことをいつも胸の痛みとして感じていながらも…

それでも捨てることができず…

それでも諦めることができず…

求めることをやまない心の中で

「職員とか利用者とかそういうこと関係なく、
1人の人間としてわかり合いたい…」

と、どうしてもこうしても願ってやまない心の内から消すこともできなく溢れてくる
想いは…願いは…

それは少なくとも
嘘ではない、
価値のあるものだと
そう感じるのです。

 



それで話をちょっと前に戻して、
職員としての「責任」という「衣」をまといながらも
(「鎧」は倉庫のロッカーの中にしまい込んで)、
日々みんなの中に入って一緒にワイワイ過ごしている僕なんですけど、

で、最近は

 

弱さとモロさ丸出しで

 
「僕だって人間なんだからねぇ…ふにゃふにゃのハートなんだから、ちょっと僕の気持ちも考えてみてよ…」

 
なんてこっちの気持ちのままの言葉を言ったりもしています。

 
「まぁNさんも人間だからね、しょうがないよね…」

 
なんて言ってもらったりもしています。

 
結構メンバーから
いたわってもらったりしています。

 

 

 

今、僕は僕なりに新しい対等性を模索しているのです。

 

責任というものと、

自分個人としての自由な純粋な、無邪気な心との狭間の中に生まれる

新しい「対等性」を模索しているのです。

 

自分自身の中の

「覚悟」と「無邪気さ」の狭間に生まれる関係性を模索しているのです。

 

そして今しみじみと感じるのです。

改めて感じるのは、昔からあるありきたりな言葉です

 

 

持ちつ持たれつ

 

新しい実感を持って感じています



 持ちつ持たれつ


大切にしたいなぁ

 

持ちつ持たれつ