明訊宏のブログ -9ページ目

明訊宏のブログ

ブログの説明を入力します。

 斉藤春名は絹江の車のドアをロックすると車外に出た。

 彼女はすでに何者かに引かれるように地元の警察署に向かっている。ヒールに踏みつけられる紛い物の大理石が悲しい声を上げる。

 助手席にカードのようなものが光を反射した。それを、正体を確かめずに鷲摑みにすると親友を追った。

「絹江、待ちなさいってば」

 たとえ、急いだとしても珠洲原直樹がよみがえるわけでもあるまい。むしろ、万がいつにも再び蘇ってもらっては困るという意識も働いているのではないか?美貌に複雑な表情をたたえているのが、背後からでもよくわかる。警察署のガラス窓に映っているのが見えたからだ。

 突然、立ち止まったので哀れにも春名は高い鼻を親友の頭にしたたかに打ち付けてしまった。

「子供のころ、まるで図書館に到着したのに図書カードを忘れたときのような気持ちなのよ」

 何をこの人は言っているのだろう?という感情をあえてあらわにしてみる。おもえば、この親友は、特に親しい人間には、感情でも物質的なものでも、自分に対して無意味に隠されることを何よりも嫌う。直樹が自分に隠して愛人を外につくっていたこと、しかも、子供までいるという、絹江は子供のことまで言及した警察官を軽はずみだと心の中で舌打ちしたものだが、今となってはどうでもいいという感じが強い。

 「警察は身分証を要求するわよね、確か、そう言っていたわ。運転免許証、忘れちゃった」

「ここにあるわよ・・・・あんた、本当は怖いんじゃないの?現実と向き合うことが」

 小説を書く人間のくせに持って回った言い方を好まない絹江に単刀直入に迫る。

「わざと忘れたのね」

 「直樹は死んだのよ、それを認めないと一歩も・・・・」

「これから先に何があるっていうのよ!春名!」

 食ってかかろうとしたが、いくら田舎とはいえここは警察署の前、いかつい顔をした警官が封建時代の城の前よろしく棍棒を携えて仁王立ちになっている。さすがに女人どうしの言い争いに手も口も出してはこないようだ。だが、ひと睨みぐらいはしないと職務怠慢だと思ったのか一瞥をくれてきた。

 それが春名と目が合った経緯である。マウンテンゴリラそっくりな下っ端警官に対して睨み返したのは、大人げないと言わざるを得ないが、さすがに彼女とて精神的にブルーになっていたことは否定できない、直樹はかつて思いを交わした相手であったのだから。

 「とにかく入りましょう」

 季節は秋に入ったには違いないが、女性の肌に紫外線のひと睨みは警官のそれよりはるかに脅威である。二人はまるで太陽光を忌避するヴァンパイアのように警察署に呑み込まれていった。

 まるで昔の小学校のような警察署の面構えだが、絹江にそんなものを鑑賞している精神的な余裕があろうはずがない。背後に従う春名は運転免許証を渡すことを忘れていたことに気づいた。

 受付を通して署長が出現すると同時にカードを彼女の手に押し込めた。彼女は確かにそれを摑んだ。そして、確かに禿げ上がった署長の頭をなめるように眺めているが、細かい記憶はきっとあさっての方向に飛び去っているにちがいないのだ。作家として抜群の、いや、その所業を生業とするならば最低限持ち合わせているべき、観察眼はすでに仮死状態となっていると歌手は思った。

 その根拠はこれまで、彼女と過ごしてきた体験がすべで、である。

 髪の毛が非常に薄くなった頭部を、署長はすでにほとんど気にしていない様子である。春名は彼をそう表現してみた。中学時代に、絹江に「あんたの歌詞は怠けている。作者の観察眼が曇っているせいだ。もっと磨きなさい」と滔々と説教されて以来、べつに売れたのが彼女のおかげでもなかろうと思っているが、少なくとも作家先生のいうことなのであらゆる外界をそのように見る癖はつけているつもりだ。

 それを言った張本人は足取りさえままならない様子で、親友に抱えてもらわないと満足に歩けないようだ。

「お怪我でもなされているので?」

「ちょっと、躓いてしまったようです」

 不審に思った署長に春名は親友の自尊心を救ってやるつもりで答えた。彼女は、ここは親友の神輿にのっかかるべきだと判断したのだろう。すでに自分を信じられなくなっているようだ。自尊心の高い彼女をここまで追い詰めるとは、直樹をそこまで愛していたのか、しかし、その問いに簡単に回答できるとは、歌手は思えない。自尊心が傷つけられた故に彼女を人事不省にさせているのかもしれない。

 「絹江・・・」

 ふと、覗いた親友の顔は蒼白になっていた。このような彼女を見るのは中学生時代から数えて一回しかお目にかかっていない。どうやら、ベクトルが向かう先がいずれにせよ、彼女は精神を破綻寸前まで張りつめさせていることだけは、確かなことのように思えた。

「すでに検死は済んでおります」

 霊安室という三文字が自分の存在感を示す部屋の前に来た。ドアが開かれる前に絹江は言った。

「待ってください、女のひとと子供がいた、ということですが?」

「そちらは、別室ですが?」

「最初にそちらに向かわせてもらえませんか?遺族の方は?」

「そちらがわのご遺族はいらっしゃってません・・から・・」

 歌手は、その後、親友が望んでいることを禁ずるだろうと予見した。しかし、彼女の思うとおりに事態が動くべく署長が口を開きかけたところ、けたたましい声がリノリウムの床に反響した。

「大変だ!女の子が目を覚ました!生きていたぞ!医者を呼べ!!」