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明訊宏のブログ

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 自分は本当に珠洲原直樹を愛していたのだろうか?

 親友が運転する車のフロントガラスに、彼の顔を想像で映し出してみる。しかし、どうにもうまくいかない。最近、売出し中のアイドル、市河勝や、学生時代に好きだったロックバンドのヴォーカルの顔が大写しになるだけで直樹の顔が思い浮かばない。これはいったいどうしたことだろう。普通ならば、このような状況だと目をつむってもいとおしい夫の顔が頭から離れないはずだ。

 なんといってもつい三日前に言葉を交わしたばかりだ。

 それなのに、彼の顔が思い浮かばない。

 自分は直樹を愛していなかった。よしんば、憎んでさえいない。感情らしい感情が湧いてこない。夫にこのような死に方をされた妻は、古今東西、枚挙に暇を持たないだろう。なにしろ、人間という生き物は殺人を集団で繰り返すことで発展してきた。なにしろ、男たちは殺し合いが好きなのだ。彼らはセックスをしているか、あるいは、同性とともに互いの身体を傷つけあっているかのどちらかだ。

 ならば、女はどうなのだろう?

 だが、市井でいうところの女性としてあるべき姿、専業主婦からはかなり距離のある生活をしている。

 かつて、作家を目指していた絹江らしく、いや、こんな書き方をするとまるで自分が作家ではないようだ。

彼女はれっきとしたミステリー作家である。人生のほとんどを現実を浮遊した世界で生きてきた彼女は、いま、彼女が置かれている状況すら可能性のひとつとしかみない。パラレルワールドではないが、他の可能性におかれた自分自身をどのような状況であっても夢想してみるのだ。

だが、今回は、さすがに、その、どのような状況から漏れる場面、らしい。

直樹が死んだ、らしい、まだ遺体と対面していないのでそうだと思いきれない。問題は普通の女性のように経済的な問題ではない。夫に死なれたとしても彼女と娘、ふたりが生きていくことに何の問題もない。それどころか、これまでとほぼ同一の生活レベルを保つことが十二分に可能である。

 仮に、直樹がDVの常習犯であって、彼女が哀れな被害者であったとしても、いま、車を運転している親友をはじめとして彼女の知人縁者たちはそのような可能性をSFの世界であっても認めないであろう、それは置いておいて、だ、この女流作家が娘とともに東京市の待っただなかに放り出されたとしても十二分に生きていけるだろう。

 彼女にはそれなりの経済力がある。マンションの固定資産税を払うだけの余裕があるということだ。

 それに加えて遺産がある。太陽国の首府にそそり立つ、かつてバブル期には億ションと衆目の垂涎の的となった自宅はすでに完済されているし、もともと夫は仕事にしか興味のない男であったいから・・・それにも関わらずこのような死に方をするとはどういうことだろう、絹江は思わず瞠目せざるをえない、警察から連絡を受けたとき、親友である斉藤春名は自分が彼女と同席していたことを心から喜んだ。

「絹江、運転は私に任せなさい」

 力なく頷いた親友を助手席に押し込めて、かつ、シートベルトで拘束して、まるでSMプレイか、これからコンクリートに縛り付けて海に沈めるような、変な緊張感があったが、難なくそれをこなして、首府高速に乗った。

 絹江の夫は医師である、いや、今となってはだったと訂正した方がいいだろう。

もともとは春名の恋人だった。歌手である彼女のファンクラブナンバー一桁だった直樹は、ファンクラブの幹部をも務めており、そのような彼が絹江と顔を会わすのは時間の問題だった。

 最初に顔を合わせたその日に恋におち、往年の名作映画を実地で体験した。しかし、中学の科学の燃焼実験で誰でも知っているマグネシウムのように、一瞬で燃え上がった恋は一瞬で萎える運命にある。両者ともに後腐れなく別れることができた。だから、何かの拍子に出会ったらしい直樹と絹江が情を交し合う仲になったと知っても、春名はべつだん、心にしこりが残っているとは思わなかった。発生したのは、ただ親友の人生がうまくいってほしいとねがう、友人らしい気持ちでできた腫瘍にすぎない。もちろん、良性である、

 その後、彼女の思惑通り誰の目にも幸せな結婚をし、女の子が生まれた。いま、彼女は幼稚園に通っている。

 それがなんという結末だろう。

 とある女性と、その子を道連れにして心中した、というのである。

 運転しながら、絹江のことが気がかりでたまらない。子供のころから、何かショックなことがあったのちにこれほどまでに冷静なときが一番、困ったことになるのだ。彼女を浅くしか知らない人間が「冷たい人」と評し、どうしてそんな人と長く友情が続くのかといぶかる人を多く見てきた。しかし、春名が知っている絹江はかなりの劇場家である。自尊心の高さが、小中高と学年が進むにつれて、家族を前にしてさえ露出することを阻んできたのである。

 だが、春名と二人になると傷ついた雌豹に姿を変える。

 今度もただではすむまいと思うが、現場を臨んだのちに二人となる車内がもっとも危惧すべき場面だろう。できれば、レナを連れてくるべきだったかもしれないが、また幼稚園児では、実父の心中シーンを見せるにはあまりにも幼すぎる。抑えにはなるのかもしれないが、彼女の精神にトラウマを残すのは考えものだ。ただし、その場に娘がいたら、平然と連れて行く、そういう人間ではある。

 そういう彼女を世間は冷たい女と呼ぶのだが、その後、春名の大腿を齧りながら嗚咽を出して泣きじゃくる姿を知らないからそんなことを言えるのだ。親友はそんな世間の風当たりをどうでもいいと嘯く。

 車はインターチェンジに滑り込んだ。他人を見るとことは彼女の精神安定剤にもなるだろう。べつにトイレに行きたくないと言い張ったが、無理やりに車外に放逐する。平日の午前9時とあって子ずれらしい家族はどこにもいない。直観だが、いま、親友に見せてはいけない映像はそのような家族ずれの一個中隊のような気がする。

 ぼろぼろの自尊心がはじけたら、今回こそ一目があってもどうなるのか、まったく想像ができない。

 それにしてもミステリー作家はこんなときどんな気分なのだろう。彼女の作品の中で幾度となくこのようなシチュエーションと邂逅したものだが、下手に小細工を弄するよりも、それはそれでかなり高い評価を受けてはいるが、情愛の描写からいってそちらの作向が彼女により合っていると思うのだ。

 隣で親友がそんなことを考えているなどと、露知らず、女流作家は苦悶とはべつの世界にいた。あるいは耐え切れずに創作の世界に逃げ込んでいたのか。

 フロントガラスに映った、というよりは彼女が映らせた、ロックバンドのヴォーカルが春名と寝ていた。作家と歌手が高校生時代に一世を風靡したバンドなので、相当に世代が違うのだが、若いヴォーカルと現在の春名が組み合っている姿は、それなりに絵になった。その様子を無意識のうちに文字に置き換えていた。

 人には映画監督になればいいのにと言われるが、作家は心の中で映像化が完成するまで、執筆に入らない。まるで行者が瞑想しているような状態に陥って、しばらくしてから浮かんできたものを文章に変換するのである。

 いま、まさにその状態になっていた。ノートパソコンがなかったので、携帯を取り出していた。

 創作者にとってみれば最高の至福の状態である。しかし、それは長くは続かない。運転者は知っていた。青い道路標識がそう告げている。