「女の子が目を覚ました!」
その言葉は珠洲原絹江の耳にどう響いたのだろう。
後々になって、春名はその時のことを思い出してみるが、ろくなことは思い出せない。せいぜいで、たまたま自分が見つめていたのは親友の背中であって、スーツの中心部に走るスリットを見つめていたが、べつにそれを意味のある記号だと見なしていたわけでもない。
根拠のない運命論は単なる後付にすぎないであろう。春名は全身が凍り付いて身動きが取れなくなっていた。ただ、ひたすらそちらに行ってはいけないと親友の背中に向けて念を送っていた。
とにかく、絹江はそちらに向かって駆け出したと思う。今度は警察署に向かうときのように何か見えない引力に導かれて、というよりははっきりと自己の意思で動いているように見えた。そのとき、すでに彼女の頭の中では決定事項となっていたのであろうか?
その婦警は激しくでもないが、手足をばたつかせる少女を上からおさえこもうとしていた。
「動かないですぐに救急車がくるから」
霊安室と書かれた、直樹とはべつの部屋のドアがとっさに開くとレナよりもすこしばかり年上だと思われる少女が連れ出されてきた。
大人たちが動くなと命じているにもかかわらず、彼らは少女を動かしている。なんという矛盾だろうか?すぐにでも救急車が到着すると焦ったのか。死亡したと診断された子供が実は生きていた、あるいは生き返ったという事実を前にして動転した結果だろうか。
少女は、手足をばたつかせて、自分をおさえこもうとしている婦警を煩わせている。
「ママ・・・」
少女の口は、満足に発語しなかったが、たしかにそう動いたように絹江の背後にて春名は思った。女流作家はその様子を見て完全に凍り付いている。
少女は手の平を部屋の中に向けている。あたかも、何処かで見たアニメか漫画の中でキャラクターがエネルギー波でも発するしぐさにそっくりだった。おそらく、中には母親が寝ているのだろう。
彼女はもはや起きてこないことを知っている。彼女は自分の行為によってもはや蘇らないことを知っている。しかしながら、それにも関わらずやめられないのだろう。
直樹の不倫相手はどんな顔をしているのだろう。
絹江と春名は、両者ともにかなりの美人であるがまったくといっていいほどに共通点がそれ以外にない。しかし、単に面食いだと評するほど彼は単純でも中身のない人間ではない、はずである。
こうまで簡単に不倫をするようではその信用もあさっての方向に飛び去ってしまった。硬直している親友は今にも崩れそうな塩梅である。とても見ていられない。
少女の様子もまったく直視できぬ様子ではある。いったい、何のために眠れる母親から引き裂く必要があるのだろう、まだ、彼らが呼んだであろう救急車のサイレンはまだ聞こえないというにもかかわらずだ。
こちらの様子に気づいた部下が報告に来た。制服から警官であることは一目瞭然だ。彼が救急車を呼んだのであろうか。少なくともその判断は間違ってはいないだろう。死亡したと思われていた子供が生きていたのだから。
一方、毒気を抜かれたように署長はほとんど内的意識を外部に対応していないようであある。
「署長、まだ来ないようですね」
「そのような、だな」
この禿げ頭にはまったく何も期待できない。春名は呆れた。お前たちはこの演劇の大道具を担う主要メンバーのはずだろう。いったい、何をさぼっているのか。
絹江は主役となりうるはずだが、おそらくは直樹の娘にそれを奪われたままだ。
そういえば、大事なことを忘れていた。自分も、そして、誰よりも先に対面すべき絹江は、直樹の亡骸を袖にしてしまっているのである。そのことに彼女は気づいていないようだ。予期せぬ子供の声に耳を捥がれたように泣きじゃくる子供に意識を奪われている。
だが、なぜだかそれを彼女に指摘すべき状況ではないように思えた。いや、決して言及すべきことではないだろう。
絹江とこの少女、二人の間には一言では表現しきれない因縁が渦巻いている。両者には何の責任もないことは事実だ。何もかも、直樹と不倫相手の責任であることは誰の目にも明らかであろう。しかし、世の中、論理的な思考だけで動いているわけではなく、むしろ、感情の複合体で成っていることの方が多いのが現実であろう。
そういういわくつきの二人の間には、何か神聖な空気が醸し出されているような気がした。春名はどうして自分がそんなことを感じているのか、自分の感覚を疑った。だが、それを感じていることは確かなようだ。
春名は、親友をこのままにしておけないと思った。
だが、身体が硬直して動かない。喉もからからに干からびて唾の一滴すら出てこず、いやしくも歌手たるものが大事な時に声が出ない。マスコミやファンの間ではタフな歌手のナンバー3に毎年、必ずエントリーさせられているが、本番前に見る夢の中ではいざステージに立っていざ歌おうとすると声が全くでない、そういう不吉な自分を観せられたことが何度もあって数えきれないくらいだ。
そういえば、こういう救いようのない夢を見たことがある。
これからステージに立とうと歩み寄ると、身体が硬直して動かない。だが、別の女が自分と同じ衣装を纏って自分を出し抜いて近づいてくる。あきらかに自分よりも背が低い。光線の加減でそれとわかるまでにかなり時間がかかる。
絹江だ。親友が、ようようとマイクを持って歩み寄ってくる。バンドの仲間もそして、ファンたちまでもが絹江を自分たちの女王のように迎える。
今回、しかし、この場は彼女のステージではないはずである。しかしながら、この既視感はなんだろう?
絹江は、いまだに足をばたつかせる少女に近づいていく。
そして言った。
「ナオキ!」