かわいそうな女の子は、哀れにも永遠の眠りについた母親から無理やりに引き離されて、まるで物でも扱うように救急車に放り込まれた。その様子は春名の目にはストップモーションをかけられたビデオ映像のように見えた。なぜか、それほどドラマティックに思えたのである。そういう雰囲気を壊したのは、一度は車に飛び乗ったものの、取って返してきて春名に向かってこう言ったのである。
「ハルナさんですよね、ファンなんですよ、サインをもらえませんか?」
その救急救命士の顔は後々になってもなかなか思い出せなかった。
あまりのことに非難しようと思ったが、とっさにもヴォーカリストとしての自分のキャラを思い出した春名はこう切り返した。
「仕方ないわね、どこに書けばいいのよ、お客さんがお待ちかねじゃない」と無理に微笑してみせた。
すぐに青年は、少なくとも20代の後半であったことぐらいは記憶の端にひっかかっている、おそらくは相当使い古した手帳を取り出すと差し出した。
「こんなものですみません」
彼女のキャラらしく妖艶なしぐさで受け取ると、まるで戦前のスターのような手つきでさらっと要求に応えた。やりおえて、軽薄な自分のファンが仕事場へとかけていく後姿を見遣りながら、自分のみっともない姿を第三者、特にマスコミが嗅ぎつけていないかと危惧した。しかし、それらしきものはいないようだ。
自らの身の安全を保障されると、自然と意識は親友の方に向かう。
「き、絹江?」
彼女は白い歯をかちかち合わせながら、確かにこう言ったのだ。
「あの子、たしかに直樹の子よ。あの鼻、顎をみればわかる。ならば、私の子よ。あの子は私が引き取って育てる!」
歌手は親友が何を言っているのか理解できなかった。ならば、という単語の使い方がまるでなっていないことがその原因ではない。道理から考えてまったくありえないことを彼女は言っているのである。まずそのことを何よりも自分に言い聞かせて、この途方もない現実を信じさせる必要性があった。
彼女は確かに言ったのである、自分の夫と不倫相手の女との間にできた子供を、自分の娘として育てると。
女流作家は、背後からやってくる足音の主たちの服を確かめて、自分の思いを強くした。別にブランドものである必要はない。それなりに着こなしていればそのフトコロがどんなかんじか容易に判断がつくというものだ。
髪の毛がかなり後退した署長が応対しているのは、そのどちらの条件も満足させていない男女たちだった。年のころは30代というところだろうか?おそらく、直樹の不倫相手の親戚、というところだろう。二人はあきらかに夫婦ではない。どちらが上のきょうだいなのかすぐには判断がつかないが、それは確かなことだろう。署長とどんな会話をしているのだろう、女流作家は聞き耳を立てた。
「兄さん・・・・・・」
その一言が、二人の関係を太陽のもとに明らかにした。作家は自分があたかも太陽であるかのように思えた。あのきょうだいにとって、少女はお荷物以外の何物でもないことはあきらかである。
その兄と呼ばれた人物は不倫相手の女のことを姉さんと呼んでいた。どうやら、今日の今日まで不倫相手がいることも、まして不義の子がいるなどと夢想だにしなかったようだ。
事態は絹江の思うとおりになった。姉の遺体を前にして、哀れな署長を真ん中に挟んで押し付け合いの喧嘩をはじめたのだ。
あの禿げ頭は自分が付け火をしたことを後悔している最中にちがいない。なんとなれば、彼が娘がいることを告げたにちがいないからだ。女流作家は思わず、「とりあえず姪御さんの顔を拝んだらどうでしょう?あまりの可愛らしさに引き取りたくなるかもしれませんよ」と言い出しそうになった。呑み込むのにかなりの苦労を必要とした。
あまりにも惨めな状況に追い込まれた珠洲原絹江にとってみれば、この喜劇は緊張を強いられた精神にとって渡りに船というところだろう。無事に向こう岸に到着できればいいいのだが、あともう少しで濃霧がやってきた。
「ちょっと、あなた、何を笑っているのですか?」
不倫相手の妹らしき女性が自分たちを笑っている絹江を怪訝に思ったのは当然のことだろう。丁寧語を使ってきたのは以外だった。兄の方はこちらに目も向けずに頭を抱え出した。
「おい、久美子、無関係の人間に因縁をつけてどうする?」
「無関係とはいささか的を外していると思いますが?」
かちんといた女流作家は相手の教養度を忘れて反論していた。困惑顔の男性に言い放つ。
「私は、あそこに寝ている珠洲原直樹の妻です」
きょうだいはほぼ同時に署長がいる方向に振り返った。無言でうなずく禿げ頭。
「わかったでしょう。あなた方はあまりにも無礼で無責任です。しかし、あなた方に朗報があるから教えてあげるわ」
「伺いましょう」
悪びれずに男の方が乗り出した。以外とガタイがいいことが見て取れる。服の下からでも大胸筋がそれとわかる。
「あなた方の姪を私が引き取りましょう。娘として育てます」
背後から親友らしき声が自分の名前を呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、きっと、気のせいなのだろう。