たとえ、それが実体にしろ、概念にすぎないにせよ、母親というものが三人もいるが、父親という言葉の意味もしらない子供がいたら、その人間は幸福なのだろうか?あるいは幸福なのだろうか?
珠洲原君子は、黒板に板書される、いわば、チョークの粉を押し付けただけのつながりにすぎない数式には意識を集中させていない。視線はそちらに固定されているが、意識は机の下で忙しなく動いている指に向かっている。その指は哀れな携帯に超過勤務を命じている。
少女が小説を書いていることは、母親には内緒だ。妹であるレナだけは知っているが、他人に漏らしたら二度と自分を姉と呼ばせないと固く約束させた。当時、小学2年だった君子は、歴史を題材にした漫画の中でキャラクターがさせられていたことを、そのまま自分たちに課したのである。
あるメンバーで約束事をするのだが、紙に約束すべき内容を認めて、血で押印し、かつ、それを燃やして酒にいれてそれぞれ回し飲みをする。
しかし、種々の理由によって細かいところは訂正せざるをえなかった。まず、酒は、子供が手が触れられるところに置いていなかった。それゆえに水でごまかすことにした。加えて、まさか可愛い妹の手に傷をつけるわけにいかなかったから、朱印で代用した。
文章は、作品の中において歴史上の人物がやっていたように、墨で和紙に、二人で同意した約束事を書き、それを焼いて灰にして水の入ったコップに混入させた。当然のことだが、妹はそれを呑むことを渋った、または可愛い妹の食道や胃が荒れるのを姉としても看過できなかったので、舐めることで済ますことでやっと合意した。しかしながら、押印の段階で少女だけはナイフで自らの手を傷つけたことと同様に、彼女は残った水をすべて飲んだ。そのとき、喉仏が上下する様子を恐怖とともに眺めたレナは絶対に口外すまいと心に決めた。
結果として、姉はひどい下痢に悩まされ、病院に緊急入院することになるのだが、日ごろから健康な娘がそのような結果に陥った理由を、母親である絹江はいくら思案しても答えを導き出すことができなかった。そして、何かを口に含んでいそうな二人を問い詰めても、満足のいく解答を得ることはできなかった。
そうまでして小説を書いていることを知られたくなかった相手は、継母である絹江に対して複雑な感情を抱いていたからに他ならない。彼女は名の知れた作家である。
そして、当時から継続して、少女は小説を書いている。いま、彼女の携帯の液晶画面は彼女が紡ぎだす文字で埋められていく。神経がそちらに完全に向かわないうちは、まじめに授業を受けている生徒を演じていることができるが、いざ、作品に取り込まれてしまうと、そうはいかなくなる。数学教師の消え入りそうな声はともかく、黒板を叩きつけるチョークの音までも聞こえなくなったらせっかくの演技と努力は失敗に終わる。ちなみに、指宿教諭のチョークは生徒たちだけでなしに、教師たちの間でも有名で授業中でも彼の声は隣の教室や廊下までは響かないのにそれだけは煩いと有名である。
努力とは、いつか絹江が彼女の親友で歌手でもある、斉藤春名に言っていたことに由来する。
「自分の主観に完全に埋没したら、作家だけでなく、あなたみたいな歌手もそうよね、ゲアーティストは終わりよ。私なんて、小説を書きながら、ネトゲーに邁進する余裕があるほどよ」
春名がそれは仕事から逃げるための口上だろうと、笑っていたことは少女の記憶回路から意識的に消去されていた。
それ以来、小説を書くことに埋没して時間を忘れるようなことは、極力控えるようにした。しかし、それがうまくいかないこともある。春の陽にあたためられた風が心地よい匂いを運んでくると、思わず自戒を忘れてしまう。
指宿のけたたましいチョークの音すら、中一の文学少女を言葉の海から救い出すことはできなかったのである。その結果、卑怯にも背後に回った数学教師から教科書で頭を叩かれることになる。
彼にしても、成績優秀で生徒として非の打ちどころのない彼女であっても、指弾の手を緩めるわけにはいかなかった。それは、いじめを防ぐ手立てだったかもしれない。だが、暴力行為の被害者である君子にとってみれば、そんな理由はどうでもよかった。ただひたすらに自分が許せない。抜け目のない人間として通っている自分がこのようなミスを二重に犯したことが迂闊だったと、能面のような無表情の肌の下で臍を噛んでいるのである。
そのきもちに火をつけるのは、指宿教諭の叱りが生煮えであることも手伝っている。ただ、軽く小突いただけで何事もなかったように数式を黒板に描きにかかる。スーツに染みついたタバコの臭いは何かを彼女に思い出させる。
それは父性というものだろうか?
もしかしたらもっと厳しく叱責してほしいのだろうか?わざとこれみがよしに携帯を机上に持ち上げて携帯をいじってもよい。だがあえてそんなことをするほどに、少女は自尊心が低くなかったし、または幼くもない。
少女には父親がいない。客観的事実とすれば、不倫相手ともに心中事件を起こした。彼は自分の娘も道ずれにしたのである。もちろん、継母である絹江はこの事実を彼女に告げていない。
彼女の記憶の中で父性という言葉から浮かぶイメージは、視覚聴覚ともに皆無である。ただ嗅覚、すなわち、スーツに染みついたタバコの臭いだけである。
いや、聴覚がかすかに残っているのは、激しく水が何かを叩く音、あえていうならそれだけだ。視覚的にはいくら父親の顔を思い出そうとしても浮かんでこない。
絹江は自分を産んでくれた母親ではない。実母はべつにいる。いつの間にか、バトンタッチしたように母親がかわっていた。そして、大きな妹までもが転がり込んできたのである。いや、正確を期すならば、母親が入れ替わったとたんに、みすぼらしいアパートから豪華な宮殿に住まいがかわった。逆に、彼女が転がり込んだのである。そこにはかわいい妹がいた。そして、もうひとりの母親がちょくちょくと遊びに来た。斉藤春名である。たまにテレビを賑わすのでしだいに有名な歌手だと気づくようになる。彼女は、かなり昔から絹江を知っているようだ。
「おばさん、お母さんと知り合いになってどのくらいになるの?」
「うん、20年くらいかな」
「何言っているのよ、子供相手にサバを読んでどういうつもりなの」
その時、母親が持ってきた真っ赤なスイカが視覚的に印象づけられているので、おそらくは真夏だったのであろう。
春名は、少女にとって三人目の母親に相応しい存在だった。ある年齢まで絹江の妹とばっかり思っていた。アーティストとして、ファンを欲求不満に陥らせる上位五位以内に何年もカウントされ続けたものである。彼女は、旺盛な創作欲に燃える絹江と違って、何年振りかに思い出したように仕事をする程度で、ほとんど、珠洲原家で主婦のようなことをしていたから、その印象が強かったのであろう。
とにかく、この歌手は少女にとって信用できる庇護者のひとりとなっていた。
中学になる過程で、いくらでも自分の存在の不自然さの根源を問う材料は、これほどまでに整っていた。
もしも、絹江が継母という身分に相応しい、いうならば、童話で語られるような悪女であればそういう機会はいくらでもあった。行動力に富む彼女であれば、小学生の低学年であっても、教師なり、近所に徘徊している大人なりを利用して、自分をしかるべき施設に保護させるだけのことは可能だったであろう。
外界から受ける情報および印象によって、いくらでも子供というものは社会によって保護される存在だという印象を抱いていたからだ。
だが、彼女から受けたのは言葉から受ける印象とは真逆の待遇だった。
普段は仕事にかまけているが、いざ愛情をかけるとなると、実の娘であるレナと変わらない、いや、それ以上のものを与えてくれたと、彼女は考えている。そのことが、しかし、絹江や妹に対する思考や行動に一定にブレーキをかけてしまっている、それになかなか気づくことができなかった。それゆえに、彼女のような境遇であれば知りたがるのが普通であるはずなのに、家の中の空気はそれを禁じていた。
だが、少女の記憶にある限り絹江はそんなことを一言も口にしたことがなかった。一時的に前の家に行くこともできない相談ではなかった。
実は、実母の位牌はいつの間にか家からなくなっていた。ほぼ偶然にそちらに足を向けた絹江が確認したのだ。仕事関係の取材で付近をドライブしていた絹江は、カーナビでどこかで聞いた地名を目にした。ブレーキをかけたのちに少しばかりの間、躊躇したのちにエンジンを入れた。目的地に到着した途端にうかつにも鍵を携帯していないことを思い出したが、扉が開いたままになっていた。誰かいるのか覗いてみると誰にも中にはおらず、以前に訪問したときにはあったものがなくなっているので、警察に連絡しようとしたが、位牌も消えていることに気づいて、おそらく遺族が持ち去ったのだと自分を納得させて帰宅してしまった。彼女はその日、君子に真実を知らせることができなかったばかりか、親戚たちにも確認することもなかった。そして、彼女が中学になるまで珠洲原家ではそのことに触れることは、いつの間にかタブーとなったのである。
それ以前に、珠洲原家に引き取られる以前の、君子自身の記憶が実にあいまい、ということも手伝っているだろう。記憶喪失というほどではないが、あのアパートでの生活は夢だったのではないかとさえ、最近では思えるほどだ。家に父親の写真は全くないのでどんな顔だったのか、今となってはかなり曖昧となりつつある。位牌がないことも疑問に感じたことはない。中学一年の少女にしてみれば今を生きるだけで夢中なのである。
しかし、コンプレクスというものは有名な心理学者のだれそれが言っているように、潜在意識に普段は隠れていて自我に影響を与えない。だが、ふとしたことでそれは凶暴な顔をむき出しにする。いま、数学の授業が終わってこれから昼食、というとき、クラスメートの誰もがどこで誰と食欲を満足させるのか、それを決める楽しい時間を過ごしている。
君子の親友である、二階堂久子も弁当箱を携えて立ち上がろうとしていた。口に出さないまでも、頭の中できみちゃん、という五文字が規則正しく列を作っていた。
君子は君子で、そろそろ自分の名前が呼ばれることを予想していた。
そんなとき、少女の耳に彼女のコンプレクスを刺戟する言葉が飛び込んできたのである。それは冷たいにおいがする廊下からだった。しかも、間の悪いことに指宿教諭の声だった。
「なんですって?わたしにその部の顧まで任すって、そういう方針なんですか?上は?まったく末端の教師をなんだと思ってるんでしょうね。うちの子供たちなんて、父親の顔すら覚えていないくらいですよ、わたしだけでなく、教師なんて親にもつと、父親なんていないも同然となりますなあ、性格も歪むってもんですよ、何、うちの父親も教師なもので・・・・」
指宿教諭は携帯電話を相手に言葉を発していたのだが、突然の物音が理由でそれを中止しなくてはならなくなった。何か大きなものが落とされたような、けたたましい音が耳を劈いたのである。
「すいません、こちらで何かあったようです。あとて連絡します」
数学教師は携帯を切った。