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明訊宏のブログ

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 珠洲原絹江が、固定電話が鳴るのに気付いたのは、ちょうど、編集者からこれから珠洲原家を訪問するという電話を受け取ったのちのことだった。切った途端に鳴ったのである。いつものようにパソコンに向かって仕事をしていたから、自らが入力した文字を意味なく眺めていた。はたして、表音文字とは本質的にありうるのだろうか?文字に意味などなく、本来的には漢字だろうが表意文字にすぎないのではなかろうか?自分が書いた文章の意味とは関係ない方向に意味が飛んでいく。

 すべては呼び出し音から逃げ出したいとまでは言わないまでも、少なくとも忘れてしまいたいと思ったからだ。固定電話となれば相手は限定される。実家の両親でさえ携帯を持っている。

 これ以上考えても仕方ないので仕事部屋を出ると廊下に面する壁に文字通りの意味で固定されている電話に手を伸ばした。

「え?指宿先生ですか?」

 驚いたことに、電話の向こうから響いてきたのは君子の担任である数学教師の声だった。その調子から只ならぬことが起こったようだ。絹江は直観的にそう思った。こんなとき

自分はどんな顔をしているのだろう、そういう意図をもって備え付けの鏡を壁にかけたわけではないが、ちょうどいま、その90%以上の確率で光を反射する銀色の物体は、その用途を全うしている。

 鏡の中で作家は誰がみても虫の居所がかなり悪いと見なすにちがいない。若い編集者がこんな彼女に対面したら心の中で悲鳴を上げるであろうことは天気予報よりも高い確率で予想できる。

 男の低い声は嫌いじゃない。むしろ、好きな方だが、この指宿という教師の声は平常であってもどこかいやな神経を、逆なでをするところを否定できない。彼によれば、あの君子が暴れたらしいのだ。机をガラス戸に向かって投げつけた挙句、その破片が一生徒の顔に当たって傷を負わせた、というのだ。

 五つのときに引き取っていらい、全く問題を起こさなかったあの子がまさか・・・・と月並みな継母の顔をしようとしたが、鏡を見る限りそれほど可愛らしい顔はしてなかった。すぐに来校するように言われたので、急いでハンドバッグ、それから化粧の用意に入った。

 折悪しくレナが帰宅した。開口一番に叫んだ言葉は、次のような言葉である。

「春名ママは?」

 すでに珠洲原家の主婦の座を春名は獲得している。玄関に入るなりおやつを彼女に与えてくれるのは絹江でなく、歌手である斉藤春名なのだ。彼女の私室までもがマンション中に用意され、二人の少女にとってみれば母親のような顔をしている春名だが、彼女たちの養育方針について二人で話し合った記憶はない。いつの間にかはまるべきところにはまった、というのが実情だろう。

 ビジネスパートナーならぬライフパートナーである春名が家を出るまえに言い置いた言葉をそのまま娘に伝える。

「春名ママはスタジオにいるらしいわ、きっと珍しくお仕事ね」

 最後に自分の感想を付することを、忙しさにかまけながらも忘れなかった。財布をバッグに入れると同時にハイヒールを履いていた。

「ママは中学に行ってきます」

「え?お姉さんの?」

 他に誰の中学があるの?と思わず入れたくなった突っ込みを鼻の中に戻す。

 レナの声に反応せずドアノブに手をかける。口紅はバッグに入っている。車の中で引けばいい。とつぜん、男の人の声が彼女の耳のなかで木霊した。

「これだから作家という人種は・・・」

 絹江は自家用車に滑り込むように乗り込んでいた。鏡にわが身を映しながら口紅を引く。先ほどの声は珠洲原直樹のものだ。あの人のことは、君子やレナのこともあって、完全に記憶から消去させたつもりだった。今頃、このようなときに五感に蘇ってくるとは、まったく不意打ちも同然だ。彼は、化粧とは家の中でやっておくべきものであって、このような疑似プライバシーが完備された空間であっても、それを嫌がった。普段、他のことでは口やかましく言わない人だったので、よけいに印象に残っているのかもしれない。

 それにしても・・と思う。君子が、間接的とはいえ、傷つけた相手が間違っても女子生徒であってほしくない。男子生徒ならば許されるというレベルの話ではないが、とにかく、絹江はハンドルを回しながらそう思っていた。中学校に至る道は、プラタナスの街路樹が続く。それが何かを意味する文字列のようにみえるが、それが何を意味するのかまだそこまで言語化していないようだ。たまに、意味のある文章が並んでいることがあるので、仕事がうまくいかないときは無意味に車を走らせることもある。

 ふいに、プラナタスが珠洲原直樹に見えた。

 思わず、ハンドルを切り損ねてカーブを曲がり損ねた。

 そのとき、背後の席から聞こえるべきではない声が飛んできた。

「レナ!あなた、何をしてるの?!隠れても無駄よ、頭を隠して尻を隠さずというやつ」

 ミラーには見慣れた小動物が蠢いているのが映っていた。この手の人間は絹江にとって常にストーカーのように付き纏ってきた、小中高、そして、家庭内においても。

 現在においては実の娘がその任務を担っているらしい。春名に言わせればまじめすぎる絹江にはすでにその種の人間が必要ということになるが、本人にしてみれば対応に困るのである。完璧に構築したはずの物語が、たった一人のトリックスターによって壊されるなどということはとうてい彼女の美意識に合わないのである。むしろ、君子こそがその任を担っていてくれば、そもそも彼女を引き取った当初の目的とも合致する。

「さっさと降りなさい。遊びに行くんじゃないのよ!」

 いつになくきつい声が自分の口から迸り出ることに驚いた。言葉だけじゃなく実際にドアを開けて帰宅を促す。タクシーじゃないのに過剰なサービスに感謝こそされてあたりまえ、恨まれるいわれはない。

 しかし、ここまでされても出て行こうとしない。ふくれっ面のまま現実から逃避しようとしているのが、本物を見ずにも、そして、鏡で虚像を確認せずとも、簡単に理解できる。レナが何を考えているのかわかる。姉のことが心配でたまらないのだ。