二階堂久子は携帯のバイブによって誰かが自分を呼んでいる声を聴いた。そのとき、彼女は保健室で顔の手当てを受けているところだった。保険医は携帯を弄り始めた生徒に怪訝な表情を示さざるをえなかったものの、あえて、何も言わなかった。そうする必要性を
感じなかっただけのことである。
珠洲原君子に、間接的でありながらも付けられた傷の手当をしてもらっていたのだ。
彼女はやおら机を持ち上げるなり、指宿教諭の声が聞こえる方向に投げつけた。もちろん、それが壁をぶち抜くはずもなくこの世のものとはおもえない音を立てて床に落ちた。全クラスの耳目がこの事態に向けられた。あきらかに自分たちが想定するより外で起こるべきことが実際に発生してしまった。
それに即座に反応するような速度を誰も持ち合わせなかった。
そもそも君子は絵に描いたとはとてもいえないものの、才色兼備で学校でも有名な生徒だった。今までも問題らしい問題を起こしたことはない。彼女にしてみればこの学校で本気で相手にする価値があるのは、せいぜいで親友の久子くらいのもので、その他のものはクラスメートや同じ部活に所属する人間を含めて、そこいらに落ちている小石とそれほど変わらなかった。そんなことは露ほども周囲の者たちは知らなかったが、どう考えても今回のような行動に出るとは予想だにできなかったのである。
しかし、久子だけは違った。クラスメートの耳目は床に転がった残骸、そして、犯罪、次に彼女、そんな風に視線を移動させた。ある女子生徒の声が導いた。
「二階堂さん、どうしたの?」
絹を切り裂くような声が、第一陣についでクラス中に轟いた。
久子は、顔を押えて立ち尽くしていた。うけた痛手のショックから左手で机を摑まなければその姿勢を維持できないように思えた。彼女の足元には割れた笛が落ちていた。おそらくは犯罪者が壁に投げて跳ね返り、そして、被害者を傷つけたのだろうとは、物理学を正式どころか、中学の授業でも勉強したことのない生徒たちにも容易に想像ができた。
とたんにみなが犯人だとみなした相手を非難する声が上がる。しかし、あまりにも状況が一目瞭然だからだろうが、それに反論したり、弁護したりする声は一切起きない。
そういう空気を劈くような声が逆に轟いた。
「やめてよ!君子は関係ない!!」
一瞬にして、この場に存在するすべての音が消滅した。
次に起こった音は教室の外部から侵入してきたのである。乱暴に扉が開かれ、指貫教諭のとても上品とはいえない上半身が姿を現した。
「お前ら、いったい何をやっている!どうした?二階堂!」
次に彼が名前を呼んだのは珠洲原という名前だった。事件が起きたとき、いかにこの場にいなくても、あるいは恐竜並みの鈍感を誇ってはいても、この大迷惑な想像の中心にいるのが君子であると推察できたからである。
そういう経緯があって、久子は教師の支持によって保健委員の手によって保健室に連行された。君子がどうなったのか、そのために彼女は知るよしがない。
彼女が取り出した携帯は一人の名前を告げていた。
珠洲原レナ。
それは完全に意外な情報だった。こんな時にどうして自分に連絡してくるのだろう。しかし、考えてみればおそらく彼女は姉の学校で何が起きたのか全く知らないはずである。だがら、相手の事情を忖度するはずがない。いや、もともと今回のことが姉にかかわることである限り忖度するはずがない。むしろ、好んで首を挟もうとするにちがいない。そこに隠された動機が存在する。そこまではさすがに見ぬいていないものの、彼女だけは、家族や同級生を出し抜いて深い所まで彼女に迫っている。
妹は別にいるのだが、レナは彼女にとって特別な、もうひとりのきょうだいのような存在である。すぐに駆け付けたい気持ちに襲われた。しかし、今、彼女が猛烈に思っていることはすぐにでも親友の元に向かいたいという気持ちである。
保健委員は頑固な性格で教師の言うことは神のそれと同一視している、きょうび、天然記念物に指定したい生き物である。女子なのだが、久子にしてもさきほどむざむざと犯してしまったような失態を二度としたくない。要するに信用していない人間に本性を露出することである。
今回は、さすがに人間、あれほどの目にあえばおかしな反応をみせるだろうとは、納得してくれるだろう。だが、それは二度と通用するようなものではない。
保健委員である安西祥子はまるで容疑者に対する警官のように彼女を観察、いや、監視している。自分は犯罪者ではないと声を大にしていいたいところだが、みなに染みわたっているイメージを壊したくない。
「私は大丈夫だから、安在さん」
帰ってくれと暗に言っているのだが、あいにくとこの、ポニーテールの陸上部員には通じないようだ。保険医にすがるような目つきを向けたが、どうやら彼女は安西ほど無神経ではなかったようだ。
彼女が発語する寸前はまだ期待していたのだが、いざ声が耳に届くと絶望しか示す反応が見つからなかった。
「二階堂さんを連れていってちょうだい」
警察官の目がこちらに向いた。まさに犯罪者を見る目だ。これから手錠でもかけるつもりだろうか?目に見えない手錠やら鎖が腰のあたりでじゃらじゃら言っている妄想を見た。たしか、将来の夢は婦警だとか友人と話していたような気がする。まさに相応しい選択だ。
しかし彼女は全く動かない。何を逡巡しているのだろう。そうだ。何処に連れていけばいいのかわからない。この状況ならば指宿教諭のところではないか。他に考えようがないではないか。それを見て取ったのか、保険医は面倒くさそうに口を開いた、あたかもクワ唇が鉄に変化してしまったかのように。
「指宿先生はきっと職員室におられると思うわ」
なぜだろう。この状況ならばまっさきに親友のところに駆けつけるのが筋ではないか。ところが彼女はレナを、少なくとも心の中では選択していた。そして、この時点においては彼女と顔を合わすべきではないと思っている。
これは正しい選択なのだろうか、それとも大事なものから逃げようとしているのだろうか?
彼女こそが逡巡しているのだ。
そうこうしているうちに、乱暴な体育会系の手つきでが久子の二の腕に伸びる。
「さあ、行くよ、職員室に」
何様だと思っているのかとは、行動どころではなく表層意識にすら考えを過らせなかった。
「私、一人で先生のところに行けるから」
そういってもまだ彼女が久子から手を離さない。どこまで無神経なのだろう。君子と比べるべくもないが、親友は必要以上に自分の気持ちを感じ取ってしまう。おそらくは無意識的にそうしてしまうのだろう。
久子は怒りを覚えた。
この状況において親友の万分の一程度でも思いやりを示してほしかった。しかし、この陸上部員はそれ以上のことをしたである。久子にとっては言動ではなく暴力に等しかった。何回かの無難なやりとりの挙句、彼女はこう言ったのだ。
「本当に二階堂さんも迷惑な話よね、あんな人と関わるからこうなるのよ」
何かが彼女の中で切れた。はっきりと脳内の大きな血管が破裂する音を聞いたのである。目の前が一瞬で真っ赤になった。
そして、気が付くと親友が先ほど犯してしまった以上の暴力を振っていた。しかしながら、どう手と身体を動かしたのかまったく覚えていない。彼女は安西祥子を平手ですなく拳骨でその頬を殴りつけていた。自分よりも頭ひとつ以上背の高い相手を強かに殴りつけていたのだ。
因みに行っておくと、武道などというものに彼女は全く、それこそ指の先ほども関係したことはない。だが、顛末の一部始終を眺めていた保険医によると、身体の捻りを利用してすべての力を右のこぶしに集中させて祥子の頬に命中させたのだ。
ありうべからざることながら、思わず格闘好きの彼女にしてみれば拍手を送りたい心境になったという。
さて、情けない姿で床に転がり声も出なくなった被害者を尻目に少女は保健室の窓に足をかけて外に出た。祥子は当然のことながら保険医ですら何も言えずに見送るだけだった。