学校を飛び出すと二階堂久子は携帯を取り出して、珠洲原レナに電話をかけた。
「どうして?どうして、すぐに返事をくれなかったの?死んでやるから!」
「馬鹿なこといわないで、久子姉に、自分がどこにいるのか詳細に述べなさい」
このような文語調になってしまったのは、自分が知っている親友の妹の語気があまりにも切迫していて今にも彼女が名状する行為に走りそうだったからだ。自分を冷静に保つために思わずそうなってしまったのである。
「な、なんだって?このバカ!」
レナが示したのは彼女が住まうマンションの屋上だった。
「ウソ、自分の部屋にいる」
「今から行くから、許さないからね」
とたんにマラソン選手となった少女はマンションに向かった。
今頃、君子の映像が脳裏を控えめに支配する。想像の中でも彼女は自分に悪いと思っているはずだ。時々、親友とは思えないほどに自分に気を使うことがある、あれほど普段、傲岸な外見を見せつけているにも関わらずだ。それを妹のレナなどが簡単に理解できるはずがない、そう考えて、自分たちと彼女とはたった一年の年齢差しかないことに気づいた。しかし、それはあくまでも君子が年齢に比較して大人じみているのであって、レナが幼いわけではない、いや、大人っぽいのだろうか、とその日に親友が起こした事件を再考してみて思った。
「危ない!何やってるんだ!?」
若いカップルが御する車に危うく少女ははねられそうになった。しかし、彼女は自分が悪いのだと思い直した。あまりにも君子のことが気になっていて無意識のうちに信号無視という罪を犯していた。
ふと視界に入った、鉄骨の、ありえない方向にひね曲がった道路標識が、ありえた自分の未来像を暗示していて少女はぞっとなった。おそらくはヘマなドライバーがぶつけたのだろう。気を取り直して再びランナーに自分の属性を戻す。
学校から珠洲原家に赴くには必ず通る道に、プラナタスの並木がエプロン姿の母親のように待ち受けている。何が悲しくて自分は走っているのだろうかと、久子は自問自答してみる。きっと何かから逃げているのだ。とたんに君子の暗鬱な美貌が古いPCのドット画のように乱れて出現した。
あの家族には久子の知らない過去が隠されていることは、今までの体験からおそらく間違いない。はたして自分にそれに手を付ける権利があるのだろうか?いや、あるはずだ。自分がレナから、「久子姉」と呼ばれている時点であると思える。それには春名という歌手が血のつながりがないにもかかわらず、あの家の主婦業、いや、主婦職か、それに就いていることを考え合わせれば自分にもその権利があると考える。
ほんのりと全身が汗ばみ始めたころに視界に珠洲原家が居住するマンションが見えてきた。その一般名称からかけ離れた存在だと言わねばならない。都心の一等地からはやや外れるものの、億ションとかつて呼ばれた物件に他ならない。大き目の一戸建てが数十戸ほど入ったものを想像してもらえればいいが、観ようによっては巨大な城塞に見えないこともない。
ここしばらく少女は身体を動かしていなかったにもかかわらず、学校での格闘ごっこン似た立ち回りから、ここまでランニングをしてきたのである。少しばかり頭の中が朦朧としていたことを否定できない。
マンションに入る前に認証用のコードを入力することを忘れて、あまりにも透明に近いほど磨き立てられた自動ドアにぶつかって額にあざを拵える羽目にあった。なんと、この高級マンションには入口に設置されたコードの次に指紋の認証までもがあるのだ。住居者以外は登録してはいけないが、珠洲原家の人たちは例外的に自分を認めてくれた。それがあまりにも幼いころなのでそれほど自覚があるわけではないが、そのことも、さきほどの自覚の一助にはなっている。
珠洲原家の部屋というよりは、一般的には区分けは55、56階の高所にある。エレベーターに乗り込んで数秒ほど経過すると、高所恐怖症ぎみの久子はすでに地上が恋しくなっている。それゆえに、55階に達して機械から吐き出されたころには自分の足が、かつて昔の人が天だと仰いだ場所にあることを思って気が遠くなってしまうのだった。幼いころから第二の家のように行き来しているというのに、生来の神経症は治らないようだ。前世は高い所から墜落して死んだのだろうか?ならばアキレウスという名前だったにちがいないと、少女は現実逃避寸前まで追い詰められていた。
だが、自分はそんな昔の人間ではなく現在人だと思い直して、天に気づかれた回廊をわたって珠洲原家の玄関までようやくたどり着いた。
しかし、そんな彼女を迎えたのはレアの剥れ顔だった。
「久子姉はレナが死んじゃってもよかったんだ」
ロックを開けてすぐに彼女は奥に引っ込んで行ってしまった。それゆえに怒ったままなのだろう。少しでも振り返って、久子姉の哀れな状況を知れば態度は変わるのではないかと、少女は思ってみる。だが、強要はしてはいいけないとも考える。
珠洲原家に足を踏み入れると、思わずその広さに唖然とさせられる。しかし、面積からすれば一戸建てである我が家よりもそれほど際だって差があるわけではない。このような広さを天空にて所有する、というただ一点において違うだけだろう?それゆえに余計に広く感じるだけだろうか?
少女は、レナの声の源を導き手に任命して、迷宮に隠されている宝物を求めて歩き出す。あの子が宝物と同一視するのはどうかと思うが、とりあえず、今、彼女が追いこまれている迷路から脱出できなくても、その手がかりが彼女にあると無理やり自分を納得させないとやっていられない。
はたして、レナは陽光がさんさんと降り注ぐ、広いキッチンで冷蔵庫をまさぐっていた。
「はやく閉めないと、春名ママが怒るわよ」
「そんなこと知らない・・・え?久子姉、その顔、どうしたの?」
レナは、わずか一秒以内のうちに激しい鬱憤から同情に急激なスピードでシフトした。
それは、久子の予想通りの反応なのだが、その単純さを目の当たりにして人生の先輩として喜んでいいのか、悲しんでいいのか、思わず顔の造作に困ってしまう。
自分はいったいここに何をしに来たのだろう。そうすればどうこたえていいのか自ずとわかってくるはずだ。考えに考えを重ねているうちに機先を制されてしまった。
「そうだ、君姉の学校でなにがあったの?大変だったって聴いたけど?」
「・・・・・・・・・」
この子を子ども扱いするのは、自分にしても、あるいは君子にしても失敗だったかもしれない。幼いとばかりみていた疑似妹の表情に、それはわずか一秒の万分の一ほどにすぎなかったが、悪魔の横顔が透けて見えたのである。