わたしのおばあさん~後編 別れ | うさぎ跳びな日々☆

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シングルのワーキングマザー。娘との日々、笑ったり、悩んだり、悟ったり、楽しく、おかしく、ちょっと切ない日々、母子で必死に駆け抜けた怒涛の中学受験から大学受験。
リアルな気持ちをお伝えできたら…。
一緒に笑ってください!!



祖母が亡くなった頃、hiroはなんかカッコつけてて、あんまり外や、人前(親の前でも)でおばあさんに優しくしてませんでした。照れくさかったの。
わざと邪険にしたりして。2人の時はゆっくり話したりしてたのに。
でも、大人になったら素直になれるって勝手に思っていたし。
就職したら初任給で絶対プレゼントしようって思ってたし。
結婚式で泣いてくれると思っていたし。
ひ孫を抱かせてあげられるって勝手に、すごく勝手に思ってた。
いつまでに一緒にいるって、なんで思えたんだろう。
どれだけ残っているか解らない時間を、明日とぎれるかもしれない時間を、大事に、やさしく出来なかったんだろう。


高校2年の中間試験前。
模試か何かで土曜日に登校し帰宅したら、両親は出かけていました。
そして、祖母が、苦しそうにベッドの下に座ってました。
「大丈夫?」
「トイレに行きたくてベッドから降りたんだけど、ようあるけんのよ」
「トイレは?」
「もう……」
「着替えとか、おむつとか」
「いい!いい!あんたしなさんな!」
「でも…」
「いい!あんたにしてもらうなんて、おばぁちゃんできんわ」
祖母のプライドもあると思い、ならせめてベッドに戻さないとと体温の下がって震えている祖母をたすけ起こそうとしましたが、持ち上がらず。
「救急車、呼ぼう」
心臓も苦しいと言っているので、そういうと
「やめなさいな。おかあちゃんたち帰ってきたとき、かってに病院なんか行って、家を空にしていたら、わるいから」
「でも」
でもでもと言うhiroに
「こうしてやすんどれば、よくなるから。」
携帯がまだ普及してなかった頃、hiroは両親が出かけた某大型手芸店に電話をし、店内放送で何度も呼び出してもらいました。
でも、両親とはつながらず、祖母のかかりつけの病院に電話をしても、土曜日午後、つながらず。
「やっぱり、救急車よぼう」
「いかんいかん。おかあちゃんにわるい。おばあちゃんはだいじょうぶじゃから、あんた勉強しとりなさい」
とりあえず毛布でくるんで、ときどき為す術もなく様子を見に行きながら、試験勉強をしていました。
3時間もそのまま両親を待って。
帰宅した両親に状況を話すと、すぐに救急車。

救急車到着までに下着を替えてもらった祖母は、担架で運ばれていきました。
循環器が弱っていて1週間ほどの入院が必要ですといわれたそうです。
そして、月曜日に病院で急変してそのまま亡くなりました。
日曜日に荷物を運ぶ母についていって会ったのが最後でした。
最後に祖母は「hiroちゃん、試験まえなのにきてくれてありがとう」と言いました。
hiroはただ無愛想に「うん」と言っただけでした。

もっとちゃんと答えれば良かった。
言いたいことはいっぱいあったのに。
そして、なにより、もっと早く救急車を、祖母が嫌がっても呼べば良かった。
あの3時間体を冷やしたのがいけなかったのかもしれない。あの間に見えないところで急変の原因が育っていたのかもしれない。

ごめんね、おばあさん。
hiroがもっとしっかりしていれば、もっと決断力があれば、もっと行動力があれば。祖母は亡くならなかったかもしれない。
このとき、やらずに後悔するって言うことが、どういう事が、痛いほど実感しました。

私はおばあさんが、大好きでした。
おばあさんがいてくれたから、hiroは今のhiroになったんだよ。
沢山の助けも、沢山のけんかも、沢山の真面目な話も。みんなみんなhiroの細胞になってるはず。

いくら書いても書ききれないくらいありがとうって言いたいけど、生きてるうちにちゃんと言いたかったです。
なので
読んでくれた皆さんに、おじぃちゃん、おばぁちゃんがご存命なら、また、ご両親がご高齢なら、後悔しないように、折に触れて伝えてくださいね。ありがとうを。