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Always smile

めぐりあえた世界に感謝をこめて…


glasgow

スコットランド滞在、続いてはグラスゴーへ。

エディンバラからグラスゴーまでの列車は本数もあって困りません。

快適なスコットレイルで車窓からの景色を楽しみました。


エディンバラで「グラスゴーはエディンバラとはまた違いますよ。都市って感じがします」と言われていましたが、駅に到着して外に出た瞬間、思いました。

「おぉぉ、街だ!」とビックリマーク

駅近くのホテルを予約しておいたので、まずは荷物を預けて目当てのグラスゴー大学見学に出かけることにしました。

またホテルでの会話が一苦労。

グラスゴーの訛りもなかなか手強いものでしたカゼ

メモグラスゴーは明治時代、多くの日本人留学生が学んだ町で、かのグラスゴー大学にも多くの大志を抱いた多くの若者たちが集いました。

そのうちの一人、高峰譲吉博士は私がとても尊敬する日本人の一人です。

博士の足跡を訪ねるにはグラスゴー行かずして!!!でして。


グラスゴー市内にはスコットランドで唯一地下鉄が走っていると聞き、

これも挑戦してみました。

地下鉄と行っても1路線が環状に巡らされているだけです。

でも何とも小さくて可愛らしい!

一日乗車券が£4でしたか。グラスゴーは実際に歩いてみると広そうで、さほどでもない。イメージが掴めればとても分かりやすい街でした。


さて、グラスゴー大学近くの駅に到着。

地図を片手に構内へと向かいます。

風格のある石造りの建築物が増えてきます。あ、Trashにもグラスゴー大学と銘打たれてます。グラスゴー大学についにやってきました。

ちょうど晴れ間が覗いてきて、青い空とモクモク雲が速度を早めて移りかわっていくさまはキャンパスのベンチに座りながら飽くことなく見続けていられますカメ

いいなぁ~この何とも言えない雰囲気。

博士もこうやって空を眺めていたのかしら…と想像するだけ想像して、また空模様も不穏なので、もう一つのミッションをはたすため、ギフトショップへ。

グラスゴー大学のタータンを探し、マグカップも入手。


ちょうど葉書も書きたかったので、何枚か買い求めてデスクスペースで手紙を書き始めました。

そこに分厚いファイルを抱えて「ここいい?」と空いた席を確認する女性が本

Sure」と席を勧めるとどっさりと資料を置いて何やら入念なチェックを始めます。

私はといえば手紙の続きを書いていましたが、ふと何の気のない間が重なり会話が始まりました。


彼女は女性史や、ジェンダー問題を研究している博士さんで、グラスゴー大学には就職のインタビューに来たとか。英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語を操れる才媛。私、日本語のみニコニコ

「でも日本語はちっともわからない」と言い、私の書く葉書の文字を見て「とっても美しい」と興味深げ。そうなんです、海外にいくと、日本語の文字ってそんなふうに言われることが多いです。


彼女はジェンダー問題をフィルムを通して訴える活動をしているそうで、「やっぱり進んでいるんだなぁ」とつくづく感じさせられました。

LBGT問題は日本でもようやくほんの少し紹介されるようになってきていますが、理解も認知もまだまだ進んでいないのが現状です。

学生時代、私が学んだのは「いろいろな立場の人がいる」ということでした。

自分の立ち位置を間違えないこと、それを学びました。そして旅をするようになりました。

旅をしていて本当に良かったと思うのは、「世界にはいろんな人がいる」ということ、そして「いろんな人がいる、「それが」いいんだ」と認識できるようになれることです。


世界を見わたせば人種、性別、信教、性的嗜好などなど、それはそれは多種多様です目

でも究極、「人を不快にさせたり、犯罪を犯したり、人を殺めたり」しなければ、人はどんな主張を持っていても自由ではないかと極論かもしれませんがそんなふうに思うのです。

自分の考えが絶対に正しいと譲らず、凝り固まった考えに縛られて、他人をもそこに縛ろうとしている人間の何と虚しいことか。

旅の途中、こんな出会いが自分の認識を新たにしたり、改めたりする機会になる。人との出会いは本当に不思議です。

その数分の出会いのあと、今、彼女と私はSNS友達申請を済ませ、今や世界のどこでもつながっていられます。

またきっと世界のどこかで会えると思います音譜

そのルーツをたどるために訪れたグラスゴーの地で、会うことはないであろう人に会うことが出来ました。人と人をつなぐ天才だった高峰博士がどこかから導いてくれたのかもしれません。

高峰博士に感謝。博士の奇跡はこのあとも続きます。


linlithgow

旅から戻り、プレゼントでもらったロワール地方のお城案内を見ながら、図書館に向かい目下読書中なのがフランス王室の歴史本

イギリスだと今も綿々と続く王室がありますから何となくイメージも掴みやすいのですが、フランスといえば、革命、ナポレオン、市民のパリ、トリコロールの三色旗!と完全にイメージが仕上がっておりまして、古城めぐりに連れていってもらいながら「フランス王家」の壮大な歴史に改めて気づかされた次第です。

これがシャルルだ、アンリだ、ルイだとかなりややこしい!汗


でも生きた歴史の遺産を間近で見る機会を得た幸運を思うと、

やっぱりコレは少しちゃんと勉強しなくては!というわけでして。

知らないって勿体ない…知るってお得!お金

知らないって怖い…知るって楽しい!¥

今回、スコットランド滞在の前にメアリ・スチュアートを取り上げた番組を見ました。

エディンバラから電車で30分ほどの場所にあるリンリスゴー。

ここはエディンバラ生活経験者から「是非行ってみて」と言われていた場所。

スコットレイルはwifiが使えるので車中でリンリスゴーを検索してみることに。

本当に便利な世の中になったものです。


駅に到着後、多分こっちかな~と下車してみましたが城らしきものは見えてきません…

これは困った…

しかし城ということはそれなりのタワーもあるはずニコニコ

ということは少し高いところに上がってみれば見えるんじゃないの??と思い坂道を上がってみました。

見渡すと、銀色に輝くオブジェが青い空と太陽に照らされて強烈な光を放っています。

「きっとあそこだ!手裏剣

そこにその城はありました。

栄華を残すわけでも、絢爛さを伝えるわけでもない、まさに人の世の栄枯盛衰を生々しいほどにたたえて、ただそこに、ありのままに。

その城は数奇な生涯を送ったメアリ・スチュアートが誕生したまさにその場所だそうです。

その城の跡がある以外、他に何があるわけでもない。

ただ圧倒されるほどの静寂が横たわるのみ。

スコットランドの移り気な空の雲の流れを見ながら、眼前に広がる湖と緑輝く芝生の対比を眺めて過ごす。

丁寧に保存され、修復されて今に往時を伝えるものがあれば、

時の流れとともに自然の営みの中で朽ち果てて行くものもある。

そのどちらをも含めて「歴史」なのだと。

歴史を学ぶことは人間を学ぶものでもあると思います。

どのように人が生き、どのように死んでいったか。

どんな人と会い、どんな人と会えず、どんな人といつかは会うことが出来たのか。

そして、何を求め、何を離し、何を残そうとしたか。

夏の旅の始まりの地、スコットランドでそんなことをふと考えました。

旅から戻り、少し経った頃。

ポストに見慣れぬ刻印と共に一通の手紙が届けられていました。

今回の旅で唯一会うことが叶わなかったパリのマダムからでした。

実際にお会いしたこともなく、私が知るのは名前と住所のみ。

あいにく旅と私のスケジュールと合わず、パリには滞在しながらも会うことが叶いませんでした。

一方、ロワール地方のお城案内をプレゼントしてくれたフランス人とは顔も知らず、名前と到着の駅と列車を連絡しただけでしたが、会うことが叶いました。


離仏の日、少し早めに空港に着いた私がふと思ったのが、「そうだ、お詫びの御葉書を送って帰ろう」でしたOK

たまたま目の前に郵便局があり、営業は終わっていましたが切手の自動販売機は稼動していましたので。


受け取った手紙はそれへの返信でした。

「パリからボンジュール!」で始まるその手紙は、秋のパリ・セーヌ川とエッフェル塔が描かれていました。

手紙の最後にはこうありました。

「次は必ずお目にかかりましょう。楽しみにしています。」

人の出会いの不思議。

つながる不思議。

もちろん、こう返事するつもりです。

「この冬、ロワール地方に立ち寄り、再びそちらにまいります。必ずお目にかかれますように。」と。


helsinki

今年の冬、導かれるようにサンフランシスコの地に向かいました。

サンフランシスコには一度訪れたことがあり、最近の私の旅のチョイスからいくと少しずれています。

「行ったことない行ってみよう」が続いていましたので。

目下、写真の整理をしていて、最初の訪問から気づけば10年が経過しようとしていました。2005年に訪れていたらしい。戦後60年にも私はかの地を訪れていたわけですね。

青い空、坂道、ケーブルカー(何故か鐘も鳴らさせてもらいました)、ゴールデンゲートブリッヂ、マルガリータにシーフード!

ちょうど泊まったホテルが犯罪エリアとして悪名高いCivic Cenerのあたりでした。もちろんパッケージツアーでしたので、ケアは万全でしたので安心した滞在でした。

う~ん、楽しかったなぁ。

そして2015年。

戦後70年のこの年、私は再び、サンフランシスコの地に降り立ちました。10年旅を続けてきた成果か、度胸と折れぬ心と笑えるほどの図々しさと諦めの速さを身につけて。

行ってみたかったスタンフォード、モントレー、カーメルを訪ね。残りの日程をゆっくりと10年前の記憶をたどってみようと思いました。

そしてどうしても行きたかった二つの場所にもう一度訪れてみました。

ノブヒルのグレースチャーチ前の公園、そしてオペラハウスでした。

鉄道王ハンティントンらBIG4が築いた夢の跡、今もサンフランシスコきっての高級エリアとして知られています。ここで今も名門ホテルとして営業するのがマーク・ホプキンズホテル。

ここは1951年、サンフランシスコで講和会議が開催された際に日本全権団が宿泊したホテルでもあります。議前、占領下にある日本の国旗は市内のどこにも見かけられなかったといいます。それが独立国でないということを酷なほど表しているんですね。調印を終えた全権団が目にした市内に溢れる日の丸の旗。湧き上がるような感慨があったことでしょう。

生きて1951年のその光景を見ることが出来た人、その日を待たず世を去らなければいけなかった人。

また生きて1945816日を迎えた人、生きて815日を越えることが出来なかった人。


忘れ得ぬ人物がいます。

阿南惟幾陸軍大臣です。

8月、二度の原子爆弾投下、ソ連参戦を受け、事ここに至ってはポツダム宣言の受諾以外に道はないと時の首相鈴木貫太郎は御前会議を召集しました。

陸軍を中心に本土決戦に備え軍が編成され、今なお徹底抗戦を主張する勢力が確かに存在していました。ポツダム宣言受諾を主張する東郷外相ら、一方、阿南陸相、参謀総長、海軍軍令部長は徹底抗戦を主張して、御前会議は意見が対立して結論を得ませんでした。

ここで鈴木は「聖断」を仰ぎます。

「外相の意見に賛成である。今となっては一人でも多くの国民の命を救いたい」

それは重ねて開かれた御前会議でも貫かれます。

阿南はなおも徹底抗戦を主張しますが、陛下はそれを諭すように「阿南、もうよい」と仰ったいいます。

「自分の身がいかになろうとも、国民の命を救いたい。」と。

阿南がこれに反対して陸相を辞任して後任を出さなければ、この決断は霧消したかもしれません。でも阿南はそれをしませんでした。

そして未だ血気盛んな陸軍将校を前に

「ご聖断は下ったのだ。今はそれに従うばかりである。不服の者は私の屍を越えていけ。」と。

14日夜、終戦の詔書に陸軍大臣として無署名した阿南は、幾たびも衝突した首相鈴木貫太郎のもとへ出向き、深々と頭を下げて非礼を詫びた。鈴木は阿南に「あなたの気持ちは私が一番分かっているつもりです。ありがとうございました。」と声をかけたといいます。そして阿南は陛下から賜った煙草を鈴木に託し、辞去した。鈴木は側近にこう呟いたそうです。

「阿南さんは暇乞いに来たのだね。」と。

陸軍大臣官邸に戻った阿南は、815日早朝、割腹自殺します。

介錯のない壮絶な最期であったといいます。

「一死を以て大罪を謝す神州の不滅を確信しつつ」と遺書を遺して。

その日の正午、玉音放送が暑い日本の8月の空のもと、ゆくゆくまでに伝わりました。

それは昭和天皇の長い長い戦後の始まりでもありました。崩御の前の年、昭和天皇にとって最後の夏の8月、既に病状は深刻であったにもかかわらず陛下は「どうしても出席する」と制止をうけても譲らなかったのが、15日の戦没者追悼式でした。

あれから70年、

一献の水をお供えしてただ黙祷し、鎮魂を祈りたいと思います。


carnegie

エディンバラ2日目。

朝、ダンファームリンに向かう前に誰もいないカールトンヒルを登り、エディンバラにおはようございます!ニコニコ

空のご機嫌は今ひとつでしたが、問題ありません!雨降ってないですから雨

案内版を確認してスコットレイルに乗車し、フォースブリッジを渡りダンファームリンの町へ。

かたつむりスコットレイルはいずれもまずまずの定刻出発で、時間の限られた滞在となった今回の旅でも助かりました。車内も清潔でWifiも利用可能、検札もしっかりしています。

ダンファームリンは、まさに郊外の平和で静かな小さな町というイメージ。

ご老人が多かったような印象があります。

大まかな地図しか持っていなかったので、「多分こっちかな~」とテクテク歩いてみました。

歩いて10分ほどすると、インフォメーションを示す道案内が。


どうしてこの街に来てみたかったかといえば、ここは鉄鋼王といわれたアンドリュー・カーネギーの故郷だったから。

メモRobber Baron=泥棒貴族という言葉が作られたアメリカの19世紀末から20世紀初頭にその最盛を迎えた新興成金の歴史にとても興味があり、あれこれと読書しているのですが、その中に必ず出てくるのがカーネギーです。

この泥棒貴族という通称よりはNew Moneyという言い方の方が特徴を捉えているように思うのですが…

苦労に苦労を重ねて、その才覚でチャンスを捉えたカーネギーは鉄鋼業で大成功し、莫大な富を築くわけですが、彼の功績の一つがその富を「未来」のために分配したこと。彼は一線を退くと、各地への図書館建設、教育事業への支援を通して「学ぶ」ことでチャンスが与えられ、ひいては貧富の差の解消を実現できるようにと熱意をもってこの大事業を推し進めていきます。カーネギー亡きあとも現在に至るまで、その篤志活動は続けられ世界規模にまで発展しています。どれだけの人がその恩恵に預かったことか、教育への投資の素晴らしさはここにありますね。


どんよりした曇り空の下、街の中心と思われる通りを歩くとスリフトショップが軒を連ねています走る人

あまりこういった景色を見かけることがなかったのですが、さまざまなFoundationが主催する店舗では、衣類に始まり書籍、食器、CDDVDなどが所狭しと並べられています。

Reuseの精神は日本ももっと見習うべきだと思いますが、自分にとっては不要な物でも他人にとってはまさに必要なもの、というのはよくあることで。

善意をもっと循環させましょうよ、スリフトショップはそんな善意への協力をしたいという思いと、あとは時に驚くようなお品が「えええ」という価格で普通に置いてあったりするので、見かけると必ず立ち寄ります。

今回の「えええ」はなんとロイヤルドルトンのポットセットです。

見かけたことのないライン。それもそのはず、今から40年ほど前の品物。状態は全く問題なく、欠けやひびもありません。

お値段なんと、£9.902000円しない価格でこんなお品にめぐり会えるなんて!音譜

旅は始まったばかりというのに何だか既に大きなお荷物ができてますが、まぁ気にしない気にしない。

寒いくらいの空の下の街歩き、そろそろ暖をとろうかとカフェに入りましたコーヒー

美味しそうなスコーンが見えたもので。

スコットランドのスコーンはジャムとバターがついてきました。そしてやはりここでも紅茶というより、コーヒーが一般的のようでした。

ちょうどこの日はジョージ王子の2歳のお誕生日ケーキ

スコットランドの新聞でも「Happy Birthday!George!」と特集が組まれていました。

イングランドからの独立を国民の半分が支持していても、王室への崇敬はイングランドやらスコットランドの別はないようで、やっぱり王室の強い国は未来も明るいですね。


さて、ダンファームリンをあとにエディンバラに戻り、そこからリンリスゴーへ旅は続きます。


spain

194586日午前815分。

その日の広島はよく晴れた朝だったそうです。

その年の6月、連合国軍は沖縄に上陸し市民を巻き込んだ激戦の末に制圧。

日本は既に敗戦必至の情勢下にありながら、徹底抗戦を叫ぶ軍部は本土決戦に備えて総軍が編成していました。

一方で、「いかに戦争を終わらせるか」この着地点を模索して水面下での動きも始まっていました。

あの日、広島の青い空に鮮烈な光を放ち、その僅か後、一瞬にして全てを焼き尽くした原子爆弾。

その爆弾投下が全ての運命を決した、そう言っても過言ではないでしょう。

戦時下の英国首相を務めたウィンストン・チャーチルは第一次世界大戦の後、次のような言葉を残しています。

まさにそのまま現実となろうとは。

戦争から煌きと魔術的な美がついに奪いとられてしまった。

かつてアレクサンダーやシーザーやナポレオンが兵士たちと危険を分かち合いながら馬で戦場を駆け巡り帝国の運命を決する、そんなことはもう無くなった。

これからの英雄は安全で静かでもの憂い事務室にいて書記官たちに囲まれて座る。

一方、何千という兵士たちが電話一本で機械の力によって息の根を止められる。

これから先に起こる戦争は女性や子どもや一般市民全体を殺すことになるだろう。

やがてはそれぞれの国々は大規模で限界のない、一度発動されたら制御不可能となる破壊のためのシステムを生み出すことになる。

人類は初めて自分たちを破壊させることが出来る道具を手に入れた。

これこそ人類の栄光と苦労の全てが最後に到達した運命である。

戦争のない社会を。

二度と過ちを繰り返さぬよう、自戒をこめて…期せず失われた数多の命の安らかなる眠りを祈って合掌…。