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Always smile

めぐりあえた世界に感謝をこめて…


lincoln

私は旅を通して多くの人と出会う幸運に恵まれました。

国内外の別は問わず、旅はいわば現実からのちょっとした逃避、

やがて戻る現実を少し向こうに置いて自分をリセットする時間でもあります。

列車を待つプラットホーム、トランジットの待ち時間、

はたまた美術館や博物館で、機内で車内で、そしてかの地で。

人種も性別も職業も多種多様音譜

(これが海外の場合、言葉は全く不得手ではあるんですが、ゆっくりしっかり心を尽くして「伝えよう」とすると、いつしか会話になっているものです。)



ワシントンからの帰りの機内で出会ったメリーランド州在住の女性は

ベトナムへの里帰りの途中の出会い。

陸軍に所属するアメリカ人と結婚して、アメリカに渡ったとか。

いろいろな苦労話を聞かせてくれました。

でも「何とかやり過ごしてきたわよ」と得意げ

バンクーバーで出会った男性はニューヨークのロングアイランド出身。

シカゴの大学で「Border」について研究して、

今はモントリオールの大学院で研究をしているとか。

所作のあちこちに苦労とは無縁の穏やかさが漂います。

カナダとアメリカの国境を越えるとき「これぞBorder!と本当に興味津々に窓の外を眺めていましたニコニコ

初めてのニューヨークシティバレエ鑑賞にキョロキョロしていると、

前の席に座っていた女性が話しかけてくれ、バレエの素晴らしさを語ってくれました。

彼女はマンハッタン生まれのマンハッタン育ち。

「この街が大好き。ここ以外、外に出たことがないわ!」と。

帰り際、「It was great to see you!」と握手を交わして席をあとにしました。

旅が一層厚みを増してゆく瞬間の数々…王冠1





佳き出会いは佳き輪をつなぎ、そこに組みした人は豊かな輪のもとに集います。

輪は次なる点と点を結び、輪は緩やかに穏やかに広がって行く。

足りるを知り、足りないことを受け容れる彼らは自分を誇示しません。

秀でた人を周囲から離さず、そこから学ぼうとします。

そして最も特筆すべきは、佳き輪をつなぐ人たちは

「不必要に関わらない」ことの達人でもあるということです。

そして人に対する評価を安易に変化させない。

それゆえ、確たる人間関係を続けていくことが出来るのでしょうリボン





その一方で、さもしさの寄合は群れをなします。

そして全体を見渡せる円を持たず、輪を築けない彼らは群れをなし、

「我こそ」と優劣を示さずにいられないようです。

我こそと思う根拠は、我こそ最も優れているのは自分という

見事なる錯覚であることに彼らは決して気づきません。

その群れ自体が自分と程度の良く似た人間のみを集めただけのものというのに…。

彼らは、「不必要なのに関わることを止められない」達人です。

彼らは秀でた人間と関わることを拒み、また関わったとして卑屈な態度に終始します。

謙遜しているつもりなのでしょうが、それは謙遜ではなく卑屈なだけ。

大抵の場合、無駄に理由をつけては「本当は関わりたくないけど」と前置きをして、

安易に流され、人に対する評価の色を軽々に変化させます宇宙人





出来うることならば、自らが「自身のもの」として得る佳き出会いを。








augst


「死ぬまでに行っておきたい〇〇」「一度は訪れておきたい絶景〇〇」などなど、

巷で取り上げられることの多いフレーズ。
書店で手にとったそんなフレーズがタイトルになった本を無造作に開くと
「クリスマスマーケット」のページでした。

はい、出かけてまいりましたニコニコ
ドイツ・ミュンヘンを起点にした冬の旅です。


これまで経由のみのドイツ。空港外に足を踏み入れるのは初めてです。
ドイツ、税関の厳しさは有名ですが、意外に緩やか(明らかに不必要と思われたか…)。

ビールの本場、ミュンヘン、さすがです。

空港に醸造所が!ほのかに香るホップの香り…ビール
さすがに貴重品も預けていないので、後ろ髪をひかれつつ、

空港駅からミュンヘン市内に向かいます。

電車はキレイで快適、途中駅も市内中心部までは地上を通ります。

車内の治安も悪くなそさうです。勿論、用心は必要ですが手裏剣

ホテルにチェックインし、荷物を整理して、まず訪れたのがマリエンプラッツのクリスマスマーケット。

そこかしこから漂うグリューワインの香り。
寒さは耐えれないほどではないですが、グリューワインのお伴で、気分は一気にアップアップ

たくさんのお店とたくさんの人で賑わっています。
キリスト教にとってクリスマスは大切な行事、町全体が浮き立つように感じました。
さてこの旅の行程は…ミュンヘンを起点とした鉄道の旅電車

まずはミュンヘン~ザルツブルグ。

そしてミュンヘン発着のニュルンベルグ~アウグスブルグへ。
各地のクリスマスマーケット、それぞれに趣きがあって素敵でした。

これは改めて綴ることとして…

この旅でふとした瞬間、煌く一瞬に恵まれました。
それはニュルンベルグからアウグスブルグに向かう車中からのこと。


美しい車窓からの風景にまどろんでいると、薄い青の空に異なる彩りが連なっていました。
何かと見てみると、消え入りそうなほどの繊細な彩りが太陽の光を支えに鮮やかに立ち上っています。
「虹」です虹
外国の地で虹に出会えたのは初めてのことでした。
彼方の高い空の向こうの先に彩りをつなげる虹を見て、今は亡き祖母のことを暖かに思い出しました。

海の向こうの旅行先から電話する度、祖母はきまって「えぇぇ!!嘘!!何してんの??目」と驚いていました。
日本で電話している様子とまったく変わらないのですから、にわかに信じられなかったのでしょう。
いつも聞かれたものです。「変な人いない?怖くない?」とガーン


「あんな大きなものが空を飛んでるなんて」と飛行機からして疑問の対象であった祖母にとって、

まさか自分の孫が、リュック一つで飛行機に乗っては、

言葉も人種も違う国に出かけていることすら、想像出来ないことだったでしょう。

変な人??....たまにいますよ。怖い思い???もちろんありますよにひひ

でも訪れなければよかったと思う旅は一度としてありませんでしたよ。

数年前に祖母は、静かに祖父のもとに旅立ちました黄色い花
共に、私に多く善きものを与え、決して否定せず、無条件で慈しんでくれました。


人はその人が生きてきたようにして死んでゆく…
共にいれた時間を通してそんなことを思うようになりました。

他人に迷惑をかけないこと、自分の選択に責任を持つこと、言い訳をしないこと。

祖母は死後の全てを整えて、彼女がいつもそうしてきたように、まさに生きたように死んでいきました。

今や、きっと懐かしい家族や、たくさんのお友達、会いたかった人たちに囲まれて、のびのびしているでしょう。そうであることを願ってます星

旅に出るとき、いつからか祖母と一緒に旅しているような気分にとらわれてることがあります。

もしかしたらすぐそばにいるのかもしれません。
私がアメリカにいようと、ヨーロッパにいようと、はたまたアジアにいようと、

今やいつだってすぐに飛んでこれます。
地上は大陸を大きな海や川が分けていますが、空は地球まるごとを包んでいますから満月

私が旅を始める最初の最初、それは既述のとおり「イギリスにはね…」というお話でした。

祖父は私が旅を始める少し前に、旅立ってしまいましたが、

きっといつも、虹をつないだ天の国から、時に「よしよし」と思い、

時に「おやおや」と思いながら、その様子を眺めていてくれていたでしょう。

さあ、リュック背負って、そろそろ出かけますよ。

虹の彼方から、麓に少し降りてきてくださいニコニコ



princeton


晴れ渡った空と生い茂って輝く緑の木々、そして美しい芝生と石造りの校舎群。
キャンパスそのものが歴史博物館といっても過言ではないでしょう。
大学施設として併設されている美術館にもお邪魔してみました。
館内には、主としてプリンストンの関係者や卒業生からの寄贈の美術品などが展示され、
本格的な始業シーズンではなかったため、人もまばら。
寄贈…そのレベルが違います叫び
古典から印象派に至る絵画、またキリスト教美術など

「ええっ、どうしてここに??」と言いたくなるような贅沢さです。
これが「大学の施設」というのですから、さすが、違います得意げ

キャンパスの周辺にはJ.CREWやアンテイラーなどのアメリカンカジュアルの衣料店も。

ミシェル・オバマ大統領夫人もたしかPrincetonの卒業生でしたね。
彼女はプリンストン入学が決まって寮生活に入る際、
同室になる予定だった白人女性の親が激怒して「うちの娘が黒人と同じ部屋なんて!」と
部屋の変更を学校側に申し立てる騒動があったとかで、
大統領選のさなかによくそのエピソードが取り上げられていました。
多民族国家アメリカ、プリンストンにもさまざまな人種の学生が集いますが、
やはり「人種」がもたらす疎外感というのは、現実としてまだまだあるのかもしれませんシラー

…が、そんなスノッブな香りがそこかしこに漂うキャンパスで、
今より遥かにそれが色濃い時代であったであろう、
そんな時代に、一人の日本人が華やかな青春を謳歌していました。
彼の名は近衛文隆。
その名が示すとおり、五摂家筆頭の近衛公爵家の若きプリンスです。
文隆は学習院を経て、米国留学に踏み切り、

ニュージャージー州にある名門ボーディングスクールであるローレンスヴィルスクールに学び、

プリンストン大学に進学ゴルフ

人を惹きつける天授の才は、彼を常に陽のあたる場所に導いたようで、

残されたエピソードからは、マイノリティたる日本人の影をいささかも感じさせません。
勉学よりむしろスポーツで注目され、キャプテンとしてプリンストン大学ゴルフ部を率いて

全米大会優勝に導きました。
父・文麿が首相に就き、日米関係がいよいよ難しい時期にさしかかると、


文隆は日本に帰国して父の秘書をつとめるようになります。
やがて本人も従軍し、日本は泥沼の戦争に突き進み、8月15日の終戦を迎えることになります。

悲劇のプリンスといわれるゆえんはここから…しょぼん

文隆は満州で終戦を迎えますが、ソ連軍に捕えられて捕虜となりシベリアに送られ、長く厳しい抑留生活に入ります。
そして抑留問題がまさに解決しようかというとき、文隆はさい果ての地で息を引き取ります。


近衛家と太平洋戦争を追ったドキュメンタリー番組で、

プリンストン時代、文隆が学友と談笑している写真が紹介されました。

まさに人生最良の時、その一瞬が写真から溢れ出ているようでしたクローバー


遥か時間を経過して、自分がプリンストンを訪れる機会を得たとき、

今も姿を変えず、そのままに残るキャンパスの建物を見てこみ上げるものがなかったとはいえません。

あの、周りすべてを輝かせたであろう影一つないまっすぐな視線の先に続いた未来に

もし戦争がなければ…



戦後69年を経た8月15日。
今日この日に、あの悲劇に係わり未来に続くことの叶わなかった数多の命に、

愚かな過ちを繰り返さぬことを誓い、そして彼らの御霊の安らかなることを祈ります。


ivy


プリンストンへの旅。
よく晴れた土曜の朝でした晴れ晴れ


ホテルを出て、近くのベーカリーでマフィンを購入して地下鉄でPenn stationへ地下鉄

ホテルはアッパーウェスト、セントラルパークも程近い場所にあり、
名だたるアパートメントやミュージアムも至近の、快適なエリアにありました。
平日はオフィスへ急ぐ人たちが忙しく行き来していますが、
週末とあって、とってもゆったりした空気が心地良い。
この街は本当にONとOFFがはっきりしています。
(変わらないのはジョギングに勤しむ人たち走る人走る人の多いことくらいか。皆さん本当に熱心です。)

Penn stationのチケットブースで、Princeton行きの切符を購入。
切符もピークとオフピークで値段が違います。

乗車前と乗車後でも値段は違います。

(もれなくチケット確認には来ますOK)

これは事前に確認しておくと旅がスムーズになります。
電車の時刻も定期的ではないので、なるべく大きな駅で時刻表をいただいておきます。

時間が近づくとトラックに降りて、コーヒーをお伴に目的地まで1時間ほどの旅コーヒー
週末だからか、みんなラフな格好で、ヘルメットとサングラスをつけ、

自転車と一緒に乗車してくる人たちも自転車
こんな素晴らしい週末の晴れの日、気持ちいいだろうなぁ~にひひ

ハドソン河を渡り、しばらくするとマンハッタンの喧噪が嘘のようなのどかな風景が車窓から広がります馬
プリンストン大学にたどり着くには直通の電車はないので、途中のPrinceton Junctionで乗り換えが必要です。
乗り換えを待つ間、視線を遮るもののない駅舎でベンチに座ると、真青の空が頭上に無限に広がっていました。

メモプリンストン大学は世界的にも有名な大学で、アイヴィーリーグの一角に鎮座しています。

その創立は1746年に遡ります。

College of New Jerseyとしてスタートし、Princetonの地に移って校名をプリンストン大学としたそうです。会衆派系のHarvardなどとは異なり、長老派にルーツをたどります。

美しいキャンパスにはアイヴィーが連なるNassau Hallを始め、歴史と伝統を否応なしに思わせる建物が整然と立ち並んでいます。

プリンストンはアメリカ独立戦争時、戦場となった地でもあり1783年にはNassau Hallで大陸会議が開催されています。

政治との関わりも深く、第一次大戦後の講和、そして国際連盟発足を導いたウィルソン大統領はもともとプリンストンの総長を務めていました。

また物理や数学系教育のレベルは他の追随を許さず、高名な研究者を数多く輩出しているのもプリンストンの特徴です。かのアインシュタイン博士は、ナチスの迫害を逃れアメリカに移り、プリンストンでその生涯の最後までを過ごしました。

プリンストン旅、ツヅク…ドア



princeton


ある夏の終わり、魂の洗濯にニューヨークに旅立ちました。


このときの旅、ちょっとしたゴタゴタがありまして…ガーン

出発一週間前、一緒に行く予定だった相手と旅の打ち合わせに待ち合わせたところ、

「実は子が出来て…」とラブラブ!

とてもおめでたいことなんだけれど、「えっ、旅行どうするの??」と

現実に立ち戻るのに時間はかかりませんでしたむっ

いやいや、そんなのムリですって…知り合いを訪ねるわけでもない、安定期にも入っていないのに海外、それも10時間以上のフライト。

でも当の本人は「全然大丈夫。行くから。」と言い張るのみ。


その日は打ち合わせという打ち合わせも出来ず、帰宅して「どうすべきか」自問自答したものです。

結論は「何かあったとき、私は責任を持てない」でしたしょぼん

翌日、彼女にそのことをメールしたときのあの嫌~な気持ちは今でも苦い記憶として残っています。

しばらくたって彼女から返信がありました。

「自分は行く気だったけど、そういうふうに言われたら行けない。」

きっと当の本人が一番パニックだったでしょう。

彼女らしくない感情的な文面を読むのはとても辛かったです。


ちょうどオペラとフィルのオープニングガラの日に合わせてとった旅日程。

レアチケットを必死でおさえ、ツアーも手配して、ホテルもグレードアップアップ・・・だったんですがね。

一週間をきってそれからホテルを手配するにも叶わず、ツアーもガラチケットも返金は出来ないし…

お金¥の清算って、なかなか言い出せず、結局そのままに。

言いづらいことですが、人生の岐路に立つとき、そのふるまいに

人間の実は真のところが見えたりするのかな。

それ以降、気まずくなってしまった関係となってしまいましたが、

今考えてみても、あのときの自分の結論は間違っていなかったと思います。

何かを得るということは、何かを捨てること。

そして自分の行動の結果は、無条件で自分が引き受けるべきだから。

他人に僅かでも責任を背負わせることは可能な限り避けねば。


周囲には「そんなケチのついた旅行はやめたら?」と言われましたが、

私の魂の洗濯にさほど猶予がある状態であったわけでもなくえっ

出かけることにしました。「ま、支払いは何とかなるさ??」ということで。


このときの旅は何だかもやもやした気持ちでJFKに到着しましたね、さすがに。

それでもニューヨークの清々しい空気と、行き交う人々、そして大好きに建物巡りをして、

マンハッタンを縦に横に、地下鉄とバスを乗り廻ってたーーーーっぷり堪能した濃厚な旅になりました。

リバーサイドドライブを夕焼けに包まれながら歩いたあの充実感、

今もしっかり覚えています。


このとき、ふと思い立って出かけたのがお隣ニュージャージ州にあるプリンストンでした。

あのアイヴィーリーグの一つ、プリンストン大学を擁する町。

アッパーウェストのホテルを出て地下鉄でPenn Staへ。

旅の続きは次の機会に音譜