肩に背にずっしりと溜まる鈍とした重み。
何とか跳ね返そうといつもより背筋を伸ばしてみるものの、
隙あらばどこからでも忍びこみ、いつの間にかすっかり支配されてしまう…
視線は落ち、足取りは重く、融通の利かなくなり、その支配になされるがまま
。
色鮮やかなはずの緑や空が、彩りのあるもの見えてもそうは感じず、
心地良いはずの風に包まれてもただの空気としか思えず
。
そんなある日の夜、とあるライヴに出かけてきました。
お目にかかる度に「いや~、今日は幸せ。こんな幸せなことはない!」と必ず仰る大先輩。
傘寿のお祝いを兼ねた大・大先輩の歌とトーク、気づけば日付も変わりそうになっていました。
会場は超満員で冷房が追いつかない様子
。
ご自身の傘寿までの道のりを各所にちりばめたトークも、人を惹きつけて離しません。
嫌な気持ちになることもなく、気づくと口角が上がり、目元が緩んでいる。
そしてほのかに残る心地良い爽快感。
その理由は何なのか。
それは、「実に」人と関わって、「実に」自分で体験をして、「実に」自分で消化して得た経験、人生の「収穫」の記録だから。
まだまだ若かった頃には見えてこなかったことが、何となく輪郭が分かるようになって、より痛切に感じるのは、「輪」をつなぐ大切さです。
つないでもらった縁の恵みをただ得るだけではなく、幸運にして享けた恵みのお返しを一生を通じてしていかなくてはならないということ。
この日のライヴで歌われた「テネシーワルツ」。
曲自体はずっと知っていましたが、この曲を聞くと私はマンハッタンの夜を思い出します。
滞在中、よく訪ねていた知人宅での夜食のあと、何とも憂愁を帯びたハーモニカの音色を挟んだテネシーワルツが流れてきました。
よく冷えたポール・ロジェを手前に、とりとめもない会話をただ時の過ぎるままに楽しんでいましたっけ…
。
日常にも叶いそうな、でもそれはマンハッタンの夜景のふもとで、私にとっては非日常のひととき。
ボトルが重みをなくしていき、一日に終わりを告げるころ、テネシーワルツをもう一度聞きながら、こう言ったものです。
「いや~、今日は素晴らしい一日だった。」
所は変わり時も経て…
時に笑い、時に先に旅立った仲間や家族の思い出に感極まり、歌い、大いに語り。
そして「今日が人生で最高の日」と最高の笑顔と共にそう言って憚らない大先輩。
またも多くを学ばせていただきました。
帰路、タワーの美しいライトアップを横目に
、
私は物言わぬ絶対の支配を跳ね返し、夜も更けているというのに、何やら光に照らされた坂を軽やかに歩いているようでした。




