「おしゃれは我慢」を止める時 | チキンなワイフ、イタリアの日々

チキンなワイフ、イタリアの日々

南国生活5年を経て、今度はイタリアで暮らすことになりました。
駐妻初級編から中級編へ。
色々比較しながら日々の事を綴ります。

イタリアに来て、2度ヒールの靴を履いた。

 

履いたのは、ロングブーツとブーティ。

南国で暮らした期間は倉庫に眠っていたのだが、特にロングブーツは10年選手のお気に入りだ。

日本のメーカー品で、ちょっとしたメンテナンスだけで本当に大活躍してくれた。

数年振りに手に取ってチェックしてみたが、内側もまったく傷んでいない。

 

しかし長い事履いていなかったから、接着が剥がれるかもしれない。

そこで、スーパーまで試し履きした。全く問題なかった。

驚く事に、流行り物だろうと思って適当な価格で買ったブーティすら、全く問題なかった。

 

それにも関わらず、私はそのお気に入り達を手放すことにした。

手放すかどうかの指標とされる「ときめき」でいえば、実はまだときめくのだ。

ただ、私が変わってしまった。

私は今、ときめきよりも心地良さが欲しい。

 

かつての私は、ヒールの靴しか履かなかった。

足が窮屈であることに慣れていたし、脹脛への刺激はスタイル維持に必要だと感じていた。

巷で言われていたように、「おしゃれとは、我慢をする事」だと思っていたのだ。

 

我慢とは、例えばヒールの靴を履くこと。

真冬でも「首」「手首」「足首」のいずれかは露出すること。

常に姿勢を正し、膝を付け、お腹に力を入れること。

 

バブル時代のようにお金を掛けなくても、最低限それだけすれば印象が良くなり、人生得をする。

実際、蓋を開ければなかなかガサツな私の場合は、印象と実際のギャップが返って好まれて来たように思う。

つまり、「おしゃれは我慢」は合理的だと感じて生きてきた。

 

ニューヨーク界隈のキャリア層ではまだこのファッション感は健在のようだが、日本では変化した。

今や「心地良さが1番」である。

 

日本の働く母達は家でも外でもスイッチをオフする時間が無いのだから、身に纏う物くらいは心地良い物を。

そんな風潮から生まれたとしても不思議ではない。

そのせいでファッション誌のモデルたちの着こなしがダボっとし過ぎる感は否めないが、心地良さの追求、万歳!

 

ちなみにここ、ファッションの国イタリアでは。

女性達の冬の服装は「ダウンコート」「パンツ」「底の厚い靴」が多い。色合わせやアクセサリーにオシャレ感が漂う割合は一定数あるものの、住宅地のイタリア人女性達はいたって普通である。

彼女達もまた、生活するのに心地よい程度のオシャレが良いのだろう。

 

それはそうだ。店舗連なる旧市街は石畳だし滑りやすいから、ヒールの靴は全く適さない。うっかり転倒などしようものなら、躾けられた犬でさえ逃れられないマーキングという本能が撒き散らしたアンモニアの餌食になる。足元のおしゃれを我慢した方が賢明だ。

 

そんなわけで、私はヒールの靴と完全にお別れした。

「首」を出す我慢はとっくに止めて、隠すことに余念がない。

出てきたのは子宮筋腫のせいにしているが、お腹を引っ込めることもとっくに諦めている。

 

中年からは、我慢しなくてもおしゃれはできる。

昔みたいに他者からの印象ではなく、心地良さや楽しさが軸になるのだから。